匣の中の蝶々たち


「くそっ暴れるから服が汚れたじゃねぇかよ」
 汚ねぇんだよ××野郎が、と口汚く罵ったあと、心底苛立たしそうな調子でメロは床に横たわるそれを何度もブーツで蹴り上げた。数時間前には確かに生きている人間の男だった“それ”は今はもはや人間ですらなかった。メロはそうやってひとの命を簡単に弄ぶ。彼がこころのそこから嬉しそうな笑いを見せるのはそういった残虐性を発揮したときばかりだった。
 僕の両腕は床に座った体勢のまま、ちょうど万歳のようなポーズで壁から生えた鎖に繋がれている。あの男が僕を拘束したような、あんな形ばかりのものでなく、しっかりとした重い鎖だ。切れた唇のかさぶたが剥がれて、また血の味がした。
「―――あ? 何だよもう終わりか? つまんねぇ野郎だな」
 部屋の中央で男の躯を蹴りつけていたメロは拍子抜けしたかのような声でわざとらしく溜息を吐いた。そうしてもう一度男を強く蹴ると、男はうぅぅ、とちいさく呻き声を漏らした。その声にメロはまた顔中に喜色をたたえる。
「そうだよなぁまだこんなんで死ぬわけないよな。あんなに助けてほしがってたもんなぁ、ライトにまで助けてくれって云って、な!」
 な、と云ったのと同時にメロのブーツの先が音を立てて男の腹にめりこんだ。彼は底の厚い頑丈なブーツを履いているからその衝撃は相当なものだろう。男は今までにないほど大きく悲鳴をあげた。
「こんなんじゃ死なねぇよ、簡単に殺してなんてやるもんか・・・―――なぁ?ライト」
「え?」
 唐突に自身に向けられた声に僕は戸惑った。
 瞬きを何度か繰り返したのち、困惑を込めてメロの顔を見ると、メロはにぃっと笑った。横たわる男を跨いで僕とメロは対峙していた。
「わかんない? ライト」と幼い子どものようにちょこんと首を傾げて僕にそう問い掛けた。僕が何と返答すればいいか判らずに黙っていると、男の躯を踏みつけて(男がまたちいさく叫んだ)僕の方に歩んできた。
 冷たいコンクリートの床に腰を下ろしている僕の前に膝をついた。
「ねぇオレがなんであの男をあそこまで甚振るか、理由わかってる?」
 メロはそう云って僕の首に両腕を回してしなだれかかってきた。頬にメロの金色の髪が触れる。あの男がいつもさせていたような、菓子のあまい匂いが鼻腔をくすぐった。メロは僕の耳元で囁いた。―――だって、あいつライトにたすけてって云ったろ? オレそういうのゆるせないんだ。ライトに向かって手を伸ばしてたすけてって懇願したこと、オレゆるせないよ。ライトに声をかけるなんて、憐れみを貰おうだなんて、ゆるせない。
 そこまで云うと、メロはぱっと顔をあげた。
「だからオレあいつのこと今まででいちばんひどく扱ってやるんだ」
 そうしてにこっと笑うメロの笑顔は少年のそれだったが、云っていることは残酷極まりなかった。僕はメロのそういった、幼い子どもが蝶の翅を毟るような残虐性が大嫌いだった。
「・・・でも、あそこまでやることはないだろ」
 視線を横たわる男の方に遣ると、メロは僕の顔を荒々しく押さえつけ自分の方に向けさせた。
「うるせぇよ!黙れ!黙れよ! ライトはオレだけ見てればいいんだよ、何で他の奴なんか気にする? 今ライトの前にいるのはオレなのに!」
 ぎらぎらと剣呑なひかりを帯びた瞳でメロは僕を睨みつけた。そして暴力的なまでに僕の唇を求めてくるのだった。口腔を蹂躙するメロの舌を噛んでやろうかと思ったが、今回はやめておくことにして目を閉じた。メロとの口吻けはチョコレートと血の味がした。
ようやく唇を離したメロにお決まりの「ひとの命をそんなに軽視するのは良くないよ」と諦め半分に云うとメロは笑って「ライトはいっつもそれだね。ライトのそういうとこ最高だね。おきれいでさ。うん、次からは気をつけるよ。ライトがそう云うんなら」と何度目か知れない台詞を吐いた。
 メロの悪い癖は今回も治りそうにない。
 辺りには血の匂いが充満していて気分が悪くなってきた。薄汚れたコンクリートの箱のような部屋には僕とメロと横たわる男だけが存在し、まるでここだけ世界から隔離されているかのようだった。きっと今この瞬間、僕らを残して世界が滅びたとしても、僕はそれに気付けないだろうと思った。そう思ったら途端におかしくなった。いつだって世界のことを考えていた僕がその世界の崩壊に気付けないだなんて! とんだ茶番だ。だったら僕は今まで何のためにこうして、何のためにあいつを、
 ふふっ、と口から笑いが零れた。メロが目を見開く。どうしたのライト、何かたのしいことでもあった? 子どもは僕が笑ったことが嬉しかったらしく目を煌めかせた。そんなメロの顔を見ながら僕は心中でひとりごちる。ばかだねメロ。僕は別にたのしくて笑ったわけじゃないよ。おかしいと思ったんだ。そう、急に。歯車が欠けてゆくようにゆっくりとおかしくなってゆく。すべてを捨て去りたいと思う僕と、すべてを手放すまいとする僕がせめぎあう。どちらかの気持ちがふくれあがっても、その瞬間あの男の影がよぎる。ばかみたいだ。いつまで僕はあの男に囚われているんだろう。―――もうあの男はいないのに。僕が葬った。そう、僕が。キラが。
 メロのことを笑えないな、と思った。僕も大概ばかだし、この手を血に染めたのにも変わりない。
 目を閉じて思案する僕からメロが離れてゆく気配がした。メロの厚いブーツが音を立てて遠ざかる。くそっ、とまた罵り声。男がまた呻く。血がまた床に、壁に飛び、鉄さびに似た匂いがまた広がった。僕はゆっくりと目を開ける。薄汚れた白い壁。繋がれた腕。不自然なほど皓々と辺りを照らす蛍光灯。一瞬、あの男に監獄に入れられたときと記憶が混同するが、即座に振り払う。
 目の前には黒い衣装を身に纏った子どもと横たわる死にかけの男。血が飛び散った床と壁。
「・・・ちょうちょみたいだ」
「え?」
 思わず呟いた僕をメロがきょとんとして振り返る。
「ライト今なんてった?」
「え、・・・いや、蝶々みたいだな、と思って・・・」
「・・・・・・何が?」
 訝しげに眉を寄せるメロが、こいつ大丈夫か、と云わんばかりの視線を寄越してくる。
「そこの壁に散った血。わかる? ちょっと蝶のかたちに見えない? ほら、そこが翅でさ」
 ね、見えるだろう?と僕は云ったが、メロはぽかんとして僕を見ていた。さっきまでの嗜虐性やらをぽんと何処かへ置いてきてしまったかのような表情だった。初めて見るその子どもらしい表情に思わず僕は笑った。するとメロはますます子どもめいた表情になるのだった。その赤い頬に、今なら僕からキスしてやってもいいな、と笑いながら思った。




『error14』の五月うみさんに戴きました、メロと月のお話。
元ネタは私が日記でぶち撒けた妄想からなのですが、うみさんらしい表現の仕方に大へん満足させて貰いました。有難うございます。


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