崖の上の話 私は最近同じ夢を繰り返し視る。 それは今まで視たどんな夢とも違い、そしてどんな夢よりもうつくしいものだった。 夢の中で気付くと、私は海に臨む崖の上に立っているのだ。ザアァァ、ザァァ、と波の音がしている。どんよりとした灰色の雲の下で、私は雨が降りそうだと思う。そうして、ふっと視線を崖のふちの方に視線を遣ると、そこに誰かが立っているのに気付くのだ。そのひとは海の方を向いているので、私には後姿しか見ることができない。ライトブラウンの髪の、そのひとは黒のジャケットとズボンを身にまとい、まるで誰かの喪に服しているようだった。 私はそのひとに声を掛けようとしたその瞬間、そのひとはくるりと振り返り、髪と揃いの明るい茶の瞳が私を射た。つよい、瞳だった。今まで私はさまざまな人間に会ってきたが、こんな瞳をもつ相手は初めてだった。思わず心臓がどくりと跳ねた。 端整な顔立ちのそのひとは私を一瞥すると何事か呟いたようだった。だがその言葉は私の耳に届く前に波の音に消されてしまった。 私がそれを問おうとして口を開くと、「こんにちは、」と涼やかな声が私の耳に届いた。そのひとは私の方に向き直って、にっこりと微笑んだ。 「こんにちは、君はここに何をしに?」 答えを持たない私はその質問に動揺してしまった。判らない。私はどうしてここにいるんだろう。何をしに来たんだろう。困惑する私にそのひとは興味をうしなったようだった。両手いっぱいに抱えていた花束から花を抜き取っては崖下へと落としていた。真っ白な薔薇だ。私はゆっくりとそのひとの方に近付いてゆく。純白の薔薇を1本抜き取るごとに、じわりとその白い指先に血が滲んでいた。 「とげが・・・」 「ああ、いいんだよこれくらい。痛みがないとね、忘れてしまうだろう?」 何をですか、と問い掛けた私にそのひとは何も云わず微笑むのだった。 そうしてまた1本、1本と薔薇が海に落とされていく。両手いっぱいに抱えられていた花はだんだんと少なくなってゆく。私はただそのひとが薔薇を海に落としてゆく仕草を見つめているのだった。1本落とすごとにそのひとは何処か遠くを見るように微笑み、1本落とすごとに白い指先は赤く染まってゆくのだった。 だが、いつまで経っても花はなくならず、そのひとは延々とその仕草を繰り返している。私は堪えきれずにそのひとに尋ねた。 「いつまでそうしているんですか。いつまであなたはそうして、」 「―――僕はね、」 私の言葉をそのひとは遮り、私に向かって微笑した。うつくしい彫像のような、どこかつくりものめいた笑み。なぜか背中がぞくりとした。肩を震わせた私に気付くとそのひとは笑みを深くした。嫣然と微笑むその顔はうつくしさの中に凶暴なものを孕んでいた。 「ものはみんなひとつっきりしかないんだよ」とそのひとは笑んだまま告げる。凛とした声は吹き上げる風に消されることなく、まっすぐに私に届く。 「ひとつだけだ。ひとつだけしかないから、それは特別なものなんだよ。そうじゃなかったら、それはほんとうじゃない。欺瞞だよ。僕はそんなものは欲しくない。ひとつっきりだ。ひとつだからこそ僕らはそれを愛し、大切に思う」 自分の意志に反してふらふらと私の脚はそのひとの立つ崖っぷちの方に歩んでいった。いや、もしかしたら私の意志だったのかもしれない。けれどもそれは私には判らない。私の脚はオートマチックに歩を進めてゆく。まるで操られているかのように。花束を抱いて立つそのひとの笑みが深くなる。嫣然と微笑み、世界に君臨する女王のような傲慢さに私は囚われる。世界がそのひとに跪き、その爪先に口吻けるだろう。細い指先が私に伸ばされる。けれども、あちこちに血が滲んだその白い指は、私に触れる直前にさっと離れていく。 あなたは、あなたは。と私は繰り返す。けれども私はそれ以上の言葉を持たない。人形のようにその言葉を繰り返すだけだ。―――あなたは、あなたは、あなたはいつまでそこでそうして。 「お前には関係のないことだよ」冷たい声が切り捨てる。「お前には決して、」 ひどく喉が渇いていた。私は何に渇望しているのか。揺れる視界にはただ支配者のみが映る。 「僕は唯一のものを愛す。それだけが存在意義のあるものだ。うしなったときの辛さを感じられないものに意味なんてない。そう思わない?」 そのひとはそう云って笑むと花束からまた一本白い薔薇を取り出した。私の脚はその笑みに引き寄せられるかのように再び歩み始める。一歩、二歩、三歩、四歩。目の前のそのひとが花弁を一枚ちぎり、私の唇にそっと押し当てた。石像になった私はだんだんと近付いてくる目の前のうつくしい容貌を見つめていた。私の顔に吐息がかかる。甘い、花の蜜のような芳香に私は包まれる。 どうしてお前はここにいるのかな、とそのひとが吐息混じりに呟いた。身じろぎするたびに強い花の香りがし、息が詰まりそうになる。睫毛が触れそうなほど近くで、そのひとを見上げる私はやっぱり石像のままだった。唇に押し当てられた花弁からはじわりと甘い汁が滲み出てくる。 「ひとつだけだからこそ僕はあいつを愛したし、ひとつだけだからこそ僕はあいつをいつくしむ。世の中にいくつもいらないよ。ひとつだけだ。たったひとつのあいつだけが僕の中で意味を成す。だからね、」そのひとは再び嫣然と微笑んだ。森羅万象すべてを総括する、あの支配者の笑みだ。吐息が顔にかかる。毒にも似た花の蜜のつよい香り。その睫毛の震えさえも私は見ることができた。花びら越しに唇の感触が伝わる。甘い痺れが私を打つ。一瞬より短い刹那なのにその瞬間は永遠だった。唇が離れ、私の耳元で囁く。 「―――レプリカは、いらない」 とん、と胸に軽い衝撃が走り、私の躯はぐらりと後ろに傾いてゆく。石像の躯はそのままに、私はそのひとをずっと見つめている。その顔からは笑みが消え去り、唇がかすかに動いた―――「ひとりだけだ」 私はその唇を、瞳を、つくりものめいたうつくしさを見つめながら落ちてゆく。ひどくゆっくりと世界は進み、君臨者は傲慢な笑みを浮かべ、民衆を淘汰する。絶対的な支配者は、けれども決して満たされることはないだろう。彼の半身は既に失われ、よって彼ははげしい渇望と希求、そして絶対的な虚無におそわれながら生きてゆかねばならない。埋められない空洞はいつか彼自身を喰い殺すだろう。私はそれを知っている。岩に打ちつけては消える波の音が近付いてくる。彼が遠くなる。今度は私のためだけに彼の唇が動く。――――――「さ」「よ」「う」「な」「ら」 私のための弔いだ。けれど私のために花が撒かれることは決して、ない。 夢の話はこれで終わり。 私が繰り返し見る夢があります。夢の中でセーラー服の女の子が長い髪をなびかせながら冬の海辺に立っています。女の子の両手には花束。 そんなイメージをもとにして、『error14』の五月うみさんに書いて戴きました。 うみさん有難う!夢に思い入れがあるだけに、私のお気に入りの作品です。 戻る |