錯覚 / 孵化 / ルール / あおぞら


覚 (L→月)

 僕と竜崎の関係は数カ月前から始まり、そのまま現在に続いている。確か竜崎は僕に何らかの性的好奇心もしくは好意のようなものを持っていたように思う。僕はそれで構わないというような返答を返したはずだ。竜崎と云うのは変わった男で、喜んでいるのか悲しんでいるのか、そもそも考えていることを表情として表さない人間だった。僕はそんな竜崎にむしろ安心して彼に身を任せていた。
 だが、気付けば僕は何故自分がそうしていたのかを見失っている。今や僕達は鎖で繋がっているので、物理的な距離だけは常に限りなく近い。
「……ああ、月くんはお疲れのようですね」
 こうして四六時中一緒に居たところですることもないので、僕達は時折意見交換のようなことをする。内容は様々で、景気の話でも哲学の話でも、とにかく話し合えることなら僕達は構わず話題にした。そう云えばこれも手錠で繋がれる以前からたまにしていたことだった。
「うん、そろそろ眠いかな。……」
 今夜の話は随分と長引いたね、と云いそうになって僕は口をつぐんだ。今夜はもう話を続けたくはなかった。妙な不満のようなものが腹の底にあった。
「では、切り上げて寝室に戻りましょうか」
 云いながら、竜崎がごく自然に足許を見て、そのまま視線を一瞬僕の方に投げた。僕は全く気付かない振りで通そうかと思ったが、すぐ考え直した。
「ああ、そうしよう」
 目を伏せ気味にして微笑むだけで僕の意思は通じた。竜崎が顔色も変えないまま「シャワーは後にしましょう」と返す。それで僕達は鎖の分の空間を引きずりながら連れだって寝室に入った。
 ベッドに座ると、竜崎がすっと手を伸ばして僕の髪を撫でた。といっても彼の手つきでは僕の髪をつまんで遊んでいるとしか思えない。だが僕はそんなことは気にかけず、相変わらず微笑を浮かべていた。
 僕はこの男に心を許しているのだ。そう考えて僕はさらに微笑んだ。さらさらと髪をいじっていた手がするりと頬を滑って唇に触れる。僕は竜崎からのくちづけを受け入れる。
 何もかもがここでは観念的だった。触れ合っているものは肉体であるはずだったが、ほかのどんな人間よりも感情や肉欲が削げ落ちたように見える竜崎との行為はむしろプラトニックに近かった。だから僕も観念的に竜崎を好いているのだろうと考える。
 くちびるを重ねたままゆっくりと後ろのベッドに背をあずけた。竜崎の舌が僕の口内で蠢いて、それが理由を告げないまま不快感だけを齎す。この行為の観念的な部分を乱すくちづけは好きではなかった。
 誘いに乗っておきながらあまり積極的ではない僕をいぶかしんだのか、竜崎が僕の脇腹に当てた手をゆっくりと上下させながら「気が進みませんか」と訊いた。僕は咄嗟には返事ができない。この虚無は何なのだろう、僕には以前感じていたような熱がどうしても掴めずにいた。
「月くん」
「……この鎖がいけないんだ」
「どういう意味ですか」
 口にすることでようやく不快感の形が掴めたように僕は思った。この鎖がいけない。そのはずだった。鎖の分の距離、鎖の存在、そんなものがすべて忌々しかった。これがある限り僕は常に竜崎との1メートル程度の距離をつよく意識させられたままだ。
 竜崎はしばらく黙っていた。指先は相変わらず柔らかく僕の肌をくすぐっている。もともとあまり明るくしていなかった部屋の照明は十分に竜崎の表情を照らさない。
「そうですか。そんなに云うのなら……」
 体を僕から離し、竜崎はベッドの反対側にあるサイドボードの中からごく無造作に小さな鍵をつまみ出した。それが手錠の鍵なのだった。
 竜崎も僕も無言のまま、鍵が差し込まれ回された。かちりというかすかな音とともに手錠は呆気なくシーツの上に滑り落ちた。それだけだった。
 竜崎が自分の手首からも手錠を取り去っていくのを見ながら、僕はそれでようやく晴れ晴れとした気持ちになれることを期待した。手錠とそれがしめす距離は蛇のようにくねって沈黙した。これで僕は解放されたのだ。
 僕は一生懸命になってあの気持ちを、熱を思い出そうとした。本当は僕は必死になって竜崎の気持ちを獲得したがっていたのだ。僕は本当に竜崎が好きだった。何故あのころの自分がそれを竜崎に知らせたがらなかったのか、それをよく憶えていない。きっと拒絶がおそろしかったのだろう。
 何も変わらなかった。竜崎は黙ったままだった。
 僕は竜崎の今の行動が、竜崎の立場に居るものなら決してしてはならないことであったことにやっと気づいた。彼は僕の懇願に負けたのだ。それはほとんど愛の告白のようなものだった。だが僕はそれを知ったというのにまったく無感動のままだった。
 言葉を失ったまま、僕が再び差し出した手に竜崎が手錠をはめた。僕達はまた手錠によって繋がっていたが、僕達の間には実際何も繋がっていないのだった。
「今夜は眠りましょう」
 静かに云うと、僕が何もこたえないうちに竜崎はシーツの下に潜り込んでそっと身体を丸めた。手錠がするりと伸びて僕の手首を軽く引いた。
 手首についたまま消えない痣の部分だけが鈍く痛んでいる。


化 (Lキラ)

 胃のあたりが重い。吐き気がする。躯が動かされる度に不安定な首がぐらぐら揺れる。呼吸とは異なる調子で視界がぶれるのが気持ちが悪くて死にそうだ。
 僕は僕の上で虚空を見据える男を見上げる。竜崎が規則正しく揺れる。揺れる。ああこいつは何をしているのだろう。
 竜崎の眼は僕に向けられているが、実際のところ僕なんか奴の視界には入っていない。竜崎が見ているのはキラだ。僕には見える、竜崎が何を見ているのか。奴はキラがひとを殺しているところを夢想している。キラの指が殺人犯の胸元に向かって伸びる、殺人犯は勿論彼がキラであることを知らない。キラは微笑んで、視線で確実に相手を捕えながらごく自然な動作で心臓を握り締める。
 ぐっ。
「……は、あ、……はっ」
 竜崎が一瞬全身を強張らせて、僕は眉を顰めた。堪えるために一拍置いて、律動がまた始まる。再び込み上げる吐き気を堪えながら、僕は薄く微笑んだ。そうだ、そうだろう。まだ足りないんだろう?
 僕には竜崎の願望が手に取るように見えていた。さあ夢想の続きだ。
 心臓を握り潰されて、殺人犯は苦悶の表情と共に悶える。絞り出すような呻きを上げながら、胸を掻きむしって地面に倒れ込むだろう。そしてのたうち回って終いには泡を吐くのだ。男の脚が痙攣して宙を蹴る。それをキラはじっと見詰めているのだ。竜崎の心拍数が上がってゆく。視線はますます遠くを凝視している。
 竜崎の願望を僕は知っている。奴はキラに殺されたいのだ。キラと戦って追い詰められ、なりふり構わず保身に走ったところを残忍に冷酷に殺して貰う事、それが竜崎の望みだ。だからこそ竜崎はああまで執拗にキラを追う。全力で潰しにかかっているからこそ逆に潰される快楽は大きいのだろう。その一瞬の快楽のために竜崎は生きているようなものだ。
 竜崎はキラを見る。屍を乗り越えて、モラルも何も棄て去った先に独り立つキラを見る。キラの最後の標的は竜崎だ。キラの指先が空中に弧を描く。白い指が竜崎の心臓を指した。
 体内にぬるりと液体が広がった。何度やられてもこれは好きになれない。息を荒げた竜崎がやっと僕を見る。それで僕は奴に嫌悪を込めてにっこりと微笑んでやった。奴の望む、キラの微笑みで。
 途端に総毛立ち底の見えない情欲を露にする竜崎の唇に噛み付いて、僕は静かに興奮しながら囁いた、いい加減にしないと、竜崎。
 ああ、何て愉しい。
「……殺してしまうよ?」
 さあ、吐き気のする行為を続けよう。今度はどんな幻想になるのか、それが楽しみでならないんだ。
 僕はいつだってお前の心臓を握っている。お前が朽ちる大地に立つのは、キラだ。


ル (リューク←月)

 落ち着いた雰囲気の、よく整理がされている洋室。青年がデスクに置かれたパソコンに向かっている。しばらく画面を眺めていたが、退屈そうに溜息を吐くと、椅子を回して身体ごと画面から視界を逸らした。
 デスクには赤い林檎。青年がそれを手に取り、ぼんやりと宙を眺めながら手の中でくるくると回す。
「……」
 しばらくして、青年がふと何か思い立ったように椅子から離れ、ベッドに寝転がった。手には林檎。
「……。なあリューク」
『何だ?』
 声は青年にしか聞こえない。虚空を見上げた先には、デスノートに触れた者にだけ見える黒い死神が浮かんでいる。
「ベッドに寝転がったことってあるか?」
『いや』
「試してみないか?」
『いいや、別に興味ねえなあ』
「付き合いが悪いな、リューク」
 青年が眉を顰めて死神を睨む。不機嫌な顔をしていたのは一瞬のことで、視線はすぐに林檎に移された。
「……美味しそうだな……」
『あ、やっぱり付き合うよ』
「そう云ってくれると思ったよリューク」
 破顔した青年がベッドに寝転がる。青年に倣って死神がおそるおそるといった様子でベッドの上に乗った。
「それじゃ駄目だよ、身体をベッドに預けないと」
 ベッドに触れそうなところで空中に浮いている状態を指摘して、青年が軽く死神の肩を押した。実体を持った死神の身体が柔らかなベッドに沈む。
『なんだか妙な感じだな』
「ははっ、初めてだったらそう思って当然かもね」
 上半身を起こし、青年は楽しげな表情で死神の身体をぐいぐい押し始めた。
「もっと身体を預けて。そう、もっと。それで力を抜いてリラックスするんだよ」
 云いながら、さり気なく青年が死神の上に乗った。隙のない笑顔を浮かべる。
「じゃあ次は人間がベッドの上でする遊びも試してみようか?……」
 死神がぎょっと目を見開き、次の瞬間青年は身体の支えを失ってベッドに倒れこんだ。驚いて振り返った青年の背後に、大きな身体を小さくした死神が浮かぶ。
「……当分林檎は抜きだと思え、リューク」
 ベッドから起き上がりながら青年は冷酷に告げ、死神を残して部屋を出る。死神の面前でドアが音を立てて閉まった。
 後に残された死神はしばらく力なく項垂れていた。青年のデスノートを取り出してぱらぱらと何項かめくり、青年が戻らないうちにルールを書き足した。死神は性交しない。
『林檎食いてえなあ……』
 死神の溜息が、誰にも聞かれないまま部屋に響いてすぐ消えた。


あおぞ (魅上)

 何もかもを失って歩くというのは、本当に身軽だった。魅上は冷たいコンクリートを歩く。右足、左足。呼吸は非常に落ち着いている。右足、左足。右足の方が踏み出す距離が長いのは、左回りに円を描いて歩いているからだ。吸って、歩いて、吐いて、歩く。心拍数は一定している。空気はまだ冷たいが調子はとてもいい。
 夜神月。彼は完璧そのものに見えた。端正な容姿、落ち着いた話し方。高い知性と揺らぐことのない理性。隙などはどこにも見えず、むしろ彼に隙があるとしたらそれは彼が故意に演出したものだっただろう。そんな全ての要因が、彼を人間以外の何かに見せていた。実際、彼は完璧だった。彼は神だった。
「魅上」
 どうやら気付かないうちに立ち止まっていたらしい。看守の警告に頷いて歩き出す。右足、左足。歩調を保って歩く。急いてはいけない。焦っては何もかも失う。神のことばかり考えても仕方がないのだ。魅上は既に神を失った。彼が神と呼んだ青年は死んでしまった。後に残されたのは黒いノートと死神、それに自分たち惨めな人間だった。すぐれたものたちはみな死んだ。無知の都には彼はうつくしすぎた。何年経っても誰を忘れても、彼のあのうつくしさだけは鮮明に思い出せる。魅上は歩き続けている。
 彼が犯した覚えもない罪状によって逮捕されたのは、月が死んで数時間も経たないうちだった。神が全知全能なのではなく、全知全能だから神が成り立つ。だからそれを裏切られた時、魅上の神は人間に失墜した。ほんのいっときのことだった。あのごく僅かの時間で、神が死んで理想郷が失われた。全て嘘のようだった。あまりの馬鹿馬鹿しさに、自殺を防ぐための拘束をされるまで自殺という考えすら思い浮かばなかったほどだ。
「魅上」
 再び名を呼ばれた。はっとするが、今度は魅上は立ち止まってはいなかった。歩調を崩さないように注意を払って歩く。
「おい」
 看守を振り向くと、場違いな黒いスーツの男が立っていた。これまで何年もこの男を目にしていなかった。黙って看守が首を振って見せた扉の方に向かうと、かつて自分の無罪を叫んでくれた友人は痛ましそうな顔をした。
 幾つかの手続きと署名を繰り返して、魅上は気付けば灰色の塀を背にしていた。
 自分がこの外に居ると云うことは、魅上は寒々と広がるコンクリートの大地を見つめた。つまり自分は忘れ去られたのだろう。それだけの月日が経ったと云うことか。
 呆然とする魅上の肩を、友人がいたわるように叩いた。
「何もかもやり直せばいい。今はまだ仮釈放でも、君が出てこられてよかったよ」
 自分が何年をあの中で過ごしたのかを魅上は知ろうともしなかったが、苦く微笑んだ友人の顔には隠しようのない年月が確かに刻まれていた。全ては過去になってしまっていた。
 長いこと不在にしていた自宅は、住むものをなくして埃に沈んでいた。友人の勧めに従って、魅上は彼の部屋をたずねた。ここ数年で社会は酷く物騒になったと聞いた。護身用に銃を用意してあるのだと諦めを滲ませて友人は笑い、それで魅上は近年刑務所に犯罪者が増えていたことをぼんやりと考えた。過去の自分には犯罪者を削除する権利が与えられていた、そう話したら友人は彼がたちの悪い冗談を云っているか気が触れたと思うだろう。
 だから魅上は自由にされた。全てがお伽話になってしまったから。
 友人の話に頷いて見せながら、魅上は月のことを、犯罪者の居ない世界のことを、彼の神を思っていた。自分の中からだけは失われないと信じていた、その何もかもが今改めて失われようとしていた。それなのに彼にはそれを見守るしか出来ない。

 本当に全てをなくして、魅上は身軽だった。冬はそろそろ春の気配をさせ、今にも暖かな風が吹きそうに見える。右足、左足。身軽になった魅上は歩いている。右足、左足。調子がいい。この分ならいつまででも歩いていられそうだ。呼吸も完璧に整っている。魅上は進んでゆく。
 そのうち彼は広場か何かに出たことに気付いて立ち止まった。一面に広がる芝生はそろそろ本来の色を取り戻しつつある。芝に混ざって、雑草も蕾をつけていた。春が近い。魅上は歩いている。彼は自由だ。
 ふと、魅上は自分が誰なのか考えた。信念も目標も過去も失って、彼は既に違うものになってしまっているのではないだろうか。彼が亡霊でないと云いきれるのか。
 それから魅上は空を見上げた。よく晴れた空だった。彼は云い知れない幸福を感じて、その場で仰向けに寝転んでみた。彼はからっぽで身軽だった。青空はそんな彼を染め上げるように青い。
 不意に思い立って、魅上は懐から友人の拳銃を取り出した。しっかりと狙いを定めて空に向かって撃つ。発砲音と共に銃弾はまっすぐどこまでも飛んだ。それですっかり穏やかな気分になって目を閉じた、そこに銃弾が落下して魅上の人生は終わった。


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