跡形もなく / 雷の夜 / 独り / 夕立


跡形もく (L)

 精神がいつでも疲労している。原因は相変わらず犯罪者の虐殺を続けるキラだとか日々進展のないことに感じる疲れであると思われる、一つの事件にいつまでも囚われたままであることは私には大へん珍しいことだしキラは実際私の命を奪いかねない。
 いいやそれは嘘だ、本当はそれが原因などではない。キラはどこかへ消えてしまった。今どこかでいかにも救世主のような顔をしているものはキラではなくただの代役だとしか考えられない。そうだとしたら私はそいつを叩きのめしてやりたい。そんな低俗なものに関わっている暇などないのだ、キラを捕らえなければ。現実は単調に私を嘲笑う。
 精神は重く鉛のように沈む。それに引き摺られるようにして私は絶えず眠気を感じている。一日中眠っていたい。眠っては目を覚まし、目を覚ましては食事を摂る日々があまり長く続き過ぎている。ただただ眠ることは一つの悦楽だ、スロウスがにたにた微笑む。私は白痴のようにそいつをぼうっと眺めているばかりなのだ。夜神が私の頬を張ってくれたら少しは目が覚めるのではないかと思う。そうすれば私は喜んで彼の整った顔を足蹴にするだろう。
 反面、どうせならもっとがっかりして落ち込みたいと思う。絶望してしまいたい、何もかも諦めてしまいたい。現在の状況を決して嫌っていないことと、この状況を打破しなければならないこと、それがちょうど対になって拮抗している。私は夜神に好意を持っている。それは事実だ。だがその好意は時として私を苦しめさえした。彼と私とは何か根本が大きく違っていてお互いのそれを永遠に理解しない。夜神は善良で正直で無神経で、私はそれに疲れているのだ。
 何もかもを上手く憎めたなら私は心の平安を取り戻す。


雷の (L月)

 遠く雷の鳴る夜だった。叩きつけるように降る雨は月と竜崎の居るビルもしっかりと覆い、幾度でも反響を繰り返している。夜の明るい街もおそらく今夜は暗く、カーテンというカーテンが全て引かれた室内にも雨の気配は満ち満ちていた。
 月と竜崎だけが閑散とした部屋の中で孤独だった。雷鳴に追い立てられるようにして去っていった人々の残していった生気の余韻のようなものは既になく、二人は黙って雨音と時折の雷鳴に耳をすませていた。
「人が死ぬのを見たことがあるよ」
 カーテンの向こうを眺めながら、月が小さく呟いた。
「女性だった。彼女は飛び降りて死んでしまった……」
 自分に云い聞かせるような静かな声は、さまざまな音の満ちる空気の中をひらりと漂った。
「……三年前のことですね?あなたの調査をした時に夜神さんから聞きました」
 竜崎の声にかき消されるように、月の声の残響は消えた。
 雨の音。一つ一つは小さいはずの雨だれが何千何億と降り注いでいる、というイメージはいつでも竜崎を発狂させたがっている。
「あなたに関する事はどんな些細なことでも調べられるだけ調べました。その女性が投身自殺するところをあなたは目撃したそうですが、夜神くんはそれがあなた自身にどのような影響を与えたと考えていますか」
「あのひとが」
 静かな声は床を這い、ゆるやかに厚い絨毯に吸い込まれてゆく。
「あの女性が飛び降りたなんて嘘だよ。彼女は花を摘もうとして落ちたんだ」
 雷は遠い。巨きなものが斃れるように、尾を引いて空気を震わせている。
 月が身じろぎして、鎖が小さく音を立てた。
「……僕はお前を裏切ったんだろうか。それともお前が僕を裏切るのか」
「水際の花には近づかないで下さい。キラがあなたの父親に刃を突き立てる」
 月はそっと頭を垂れた。月が頷いたのか、あるいはただ俯いたのか、竜崎は知らない。竜崎は絶望に突き落とされて水に浮かんだ少女のイメージを思い浮かべた。花を摘もうとして落ちたのだと述べる彼女の侍女を思い浮かべた。その侍女はきっと青褪めた顔で静かに少女の死を伝えただろう。
 だが竜崎には月の表情は窺えない。ただ二人とも黙って雨の音に言葉を委ねている。月と竜崎の手首から伸びた鎖は、どちらか一人だけが落ちてしまうことのないよう、鈍くひかりながら二人を確かに縛っていた。


り (L→月)

 安息とは愚鈍なものですね、と竜崎は声には出さずに月に話し掛けた。
 ここしばらく竜崎は頻繁に月に声を掛けたがっている。月の注意を惹きたいのでも、観察することが目的なのでもない。単純に月の返答を知りたいためである。ただしそういう時思い浮かぶ内容に言葉にする必要性を感じられることはあまりなかったので、よってそれらは大抵心の中で唱えるだけに留めおかれるのだった。前後の会話とは全く関係のない質問や意見、それに鬱々とした発想に基づいた見解は、実際言葉となって月に届くことがないからか、竜崎の中で何度でもしかし無意味に繰り返されていった。
 かなしいことに、月は時折竜崎の発する言葉の意味を測りかねることがあるようだった。理解が足りないのではなく、竜崎の意図を読むことができない状況が主であるように竜崎には思えている。竜崎には自分と月の間にある小さな断絶がよく見えていた。そしてそれは竜崎が返答のない呼び掛けをするほどに開いてゆくように感じられた。
 自分と月の間には何があったろうか。何が無かったのだろうか。竜崎は頭をゆっくりと俯けて柔らかなカウチの布目を目で辿る。明るい色調のベージュ。自分の影で暗くなっている部分はやや灰色がかって見える。再びベージュ。もう少し明るいベージュ。軽い偏頭痛の気配がする。
 月のこと、キラのことを考えるという行為は、今では竜崎にとっては苦痛そのものだった。竜崎はあまり他者に接しない。接触や共有が人間が本能的に依存する要因である以上、竜崎の中で月という人間の比重が多少なりとも重くなることは当然の結果だった。だからこそ、自分がようやく接した月という外界から切り離されてゆく過程を見つめることは、竜崎には酷い負担となった。理解と感傷が結びつかないことに竜崎は落胆している。
「……安息とは、愚鈍なものですね」
 竜崎はとうとう諦めてそれを口にした。何時間か口もきかなかった竜崎の咽喉から発された声はわずかに掠れて乾いている。
「何のことだい?」
 月が律儀に竜崎の方を向きながら訊き返す。モニターを捉えていた視線が一瞬遅れて竜崎に合わせられる。
 あれです、と竜崎は云おうとした。窓の桟に白くぼってりとした鳩がとまっていた。月は鳩を見て苦笑するだろう。当たり障りなく「あれだけ太っているのだから平和の象徴であることも頷けるな」とでも言葉を返してくれるかも知れない。そうしてその様子は自分に慰めを与えてくれるのに違いなかった。そうであれ、と竜崎は強く願った。月に理解してほしかった。
 安息をもたらすと信じられているいきものは、だが、竜崎が続けて言葉を発する前に重い体を揺らして飛び上がると呆気なく視界から消えた。
 もう遅すぎたのだ。何も云わないまま目を伏せた竜崎に肩を竦めて見せて、月は再びモニターに向かった。月の無邪気な無神経さに手酷く傷付けられ、竜崎は黙って窓の外を見つめた。きっと月は永遠に竜崎を理解しないだろう。竜崎は孤独だった。


 (L月)

 月と竜崎は都内にある大学に通っている。
 二人は同時に主席入学したと云う変り種同士だったが考え方はあまり似ていなかった。月の方は生まれも育ちもそこそこ良い方で、あまり苦労をしたことのないたちだったが、竜崎は一般生徒と比べても随分毛並みが違っていた。そのため最初のうち二人には何かと衝突が絶えなかったが、他愛のない喧嘩を続けることはじゃれ合うことと同じようなもので、そのうち段々仲がよくなってきた。
 二人が一緒に話す頻度は高くなり、お互いに強く好意を抱くようになった。
「僕がお前を好きだって云ったらどうする」
 ある日月がそんなようなことを云った。
 二人は授業を済ませて歩いているところだった。夏になりかかった頃で、暑いほどに晴れていたが、どうやら夕方には夕立が掠めてゆきそうだった。月は空を眺めながら不意にその言葉を呟いたので、竜崎はほとんどそれを聞き逃すところだった。
「どうしてそんなことを云うんですか」
 竜崎はごく落ち着いた様子で尋ねた。
 月の歩みはぐっと速度を落とした。月はあまりにも自分の竜崎に対する気持ちがむくわれていないように感じていたので、それでそんな言葉が口をついて出たのだった。
 月は不自然ではない程度に顔をそらしていて、だから竜崎には彼の表情が見えていない。
「夜神くん」
 月は黙ってゆっくりと歩いていたがとうとう立ち止まった。顔をそらしたままだったが一層苦しげにうつむいた。
 二人はしばらく黙っていた。月も、竜崎も何も云わなかった。
「夜神くん」
 もう一度竜崎が声を掛けた。月はびくりと肩を震わせると、竜崎から目をそらしたまま吐き捨てるように「僕には付き合っている人がいるんだ」と云った。月はその相手を好きでも嫌いでもなかった。ただ竜崎のことばかり考えてしまう気晴らしにしていた。
「それは誰ですか」
「先輩」
 こたえながら、月は遊びでも他の人間に心を移そうとしてしまったことに苦しんでいた。竜崎さえ望んでくれればただ竜崎だけを思いたかったが、おそれが月の心を折っていた。
「そうですか」
「だからさっきのは冗談だよ。ちょっと自慢したくなっただけ」
 月は意地のわるい笑みを浮かべて今度は竜崎の顔を覗き込んだ。苦しみを抑えたそれは勝ち誇ったような表情だった。その笑みは奇妙に歪んでいて、竜崎はいやな気持ちになって黙っていた。
 竜崎には月と自分以外の誰かとの幸福をただのぞみたいとは到底考えられなかった。竜崎は月がたった今名前を挙げた先輩をつよく憎んだ。だが月の苦しい思いを察することができないまま竜崎は「そうですか」とだけ繰り返した。それで二人はその場で別れてそれぞれ帰宅した。
 折からの夕立は思いのほか激しく、二人は冷たく苦い雨に濡れた。


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