順応 / きょうだい / 神話 / 終着点


 (L月)

「ところでミサさんは自慰などをするのでしょうか」
「……は?何云ってるの竜崎さん。私がそんなことしててもしてなくてもあなたに云うはずがないじゃない。それにどうせ監視カメラで見てるんだから知ってるでしょ」
「そうですね。それでは、ミサさんは性的な想像をしたりしますか?」
「だから――」
「例えしていてもそれはおかしなことではありません。正常な若い人間なら性別を問わず自然なことです。お相手はやはり夜神くんでしょうか」
「そりゃそうでしょ。……してたらの話だけど」
「内容は夜神くんがあなたに性的な意味を持って触れたりするものですね」
「もーどうでもいいでしょ!竜崎さんってば、何が云いたいの?」
「ミサさんの順応性を確かめたくなっただけのことです」
「……順応性?何で?」
「そうですね、ミサさんなら普通に考えて夜神くんに組み敷かれる想像をすると思われますが、仮に夜神くんが誰か男性に……この場合想像しやすいように私でも構いません。彼が男性に組み敷かれている様子を想像してみてください」
「ええーっ、そんなの変だよ……」
「まあ聞いて下さい。夜神くんは抵抗しようとしていますがその男性には敵いません。必死で抵抗を繰り返しますが、その間にもその男性が夜神くんの身体を高めるので彼は顔を紅潮させ目を潤ませて睨みつけます……こういった情景を想像してみて、どう思いますか」
「ど、どうって……」
「そんな夜神くんの反応を想像したことは無いはずです。こういうのも良さそうだと思いませんか」
「うーん……まあね。ちょっと新鮮かも」
「なるほど。流石ミサさんです。順応性が高いですね」
「ほんと?やったー」
「……竜崎」
「何ですか?夜神くん」
「……確かに捜査の資料にするため全員の順応性のテストをするべきだと云ったのは僕だ、だがどうしてこんなテストの仕方をする必要があるんだ」
「ミサさんに解り易いように考えた例えを使っただけのことです。夜神くんにとって不愉快なら聞かなければいいことです」
「……こうして手錠で繋がれて隣に座っていたら厭でも聞こえてくるんだよ」
「それでも聞かずにいることは可能なはずです。それとも夜神くんはもしかして私が解説していた内容を想像して性的に興奮、」
「悪かった!僕が……悪かったよ……竜崎……」


うだい (粧裕)

 私には兄がいます。彼は私より三つ年上で、頭も人柄もいい、妹の私から見てもすぐれた人です。私には「彼は私の兄です」とあの人を指して云うことが間違っているように思われます。勿論私達は歴とした兄妹なので事実と相違してはいないのですが、どうしても「私は彼の妹です」と云った方がしっくりくる気がします。多分、彼が私の付属物ではなく、私が彼のおまけのようなものだからでしょう。
 こんなことを云いましたが、それは決して兄が私を迷惑に思っているという意味ではありません。また、私も兄を敬愛しています。彼は大抵誰にでも優しい人ですが、妹の私には誰よりも優しく接してくれます。ただ血が繋がっているからではない、それが愛情だと私はよく知っています。
 私は思いだします。兄はいつでも私を思ってくれています。彼はいつだって驚くべき忍耐強さでもって私に接します。私が兄を頼って彼が聞き入れてくれなかったことは多分無いでしょう。我が侭を云った時に軽く私の頭を叩く彼の手は、いつだって兄らしい優しさと親愛に溢れています。
 私は兄に依存しているのでしょう。だけどそれは不思議な事ではないと思うのです。私は常に兄の足跡を追って歩いてきました。せめて兄の影くらいは掴まえられたでしょうか。子供の頃は私と何でも分け合ってくれた兄は、今でも変わらず私を大切にしてくれているけれど、私にはもう兄が何を考えているのか解りません。これが成長するということの正体なら、それはとても悲しいことです。
 兄の友人が亡くなったそうです。流河さん。彼は兄と同時に大学の首席になった人です。私はそれ以上はあまり流河さんという人の事を知らないのですが、彼が亡くなっていたことを知ったのはつい最近の事でした。父の仕事仲間が話しているのを聞いたのです。少し驚いて兄に訊いてみると、兄は私にだけ彼がキラ捜査に関わっていたことを教えてくれました。では彼はキラの手にかかって死んでしまったのでしょうか。私はそれ以上質問をしませんでした。それから兄はぼんやりと悲しそうな顔をしてしばらく黙ってから、「あの頃は僕にもキラの疑いが掛けられたりもしたんだよ」と云って少し痛そうに微笑みました。
 兄のそんな悲しげな素振りが彼の本心ではないことに、私は何故気付いてしまったのでしょう。でも私には感じ取れました。それはもう兄の中では既に済んでしまったことなのです。
 彼は冷たい……。
 私はその事実に愕然としました。それから私は最後に兄が泣いたところを思い出そうとして、それが上手くいかないことに気付きました……。
 私は兄を尊敬しています。兄は優しくて立派な人です。私はあの日聞いたこと考えたことを全て忘れてしまおうと思います。彼はずっと私の大切な兄です。私もいつまでも彼の手の掛かる妹で居ます。それが私達きょうだいの幸せなのだと私は信じています。


話 (松田)

 カロンて知ってますか。そうだね、それだ。忘却の川を渡してくれる渡し守。その川の水に触れるとみんな何もかも忘れてしまうんだけどね、カロンもやっぱり自分が誰で何のためにずっと死者を渡し続けているのか、忘れてしまっているんだ。うん。神話だね。
 だけど僕は神話を見たよ。僕はカロンがある日とうとう力尽きて死んでしまうところを見た。カロンさえもが死んでしまうところを見て、僕たちはこれからどうなってしまうのかと怖れたけれど、カロンはただ死んでしまっただけで、あとは舟から落ちて流されてしまった。忘却の川にね。きっとカロンはそのまま忘却の水に洗われて跡形もなくなってしまったんだと思う。影も形も見えなくなった。それから誰もがカロンのことを忘れた。それだけだ。他に怖ろしいことは何も起きなかった。
 それでもね、その時カロンは人を渡している途中だったから、舟の上にはまだ人が一人残っていたんだ。彼は当然川を渡らない訳にはいかないから、今度は彼が舟を漕ぎ始めた。彼は出来ればこちらの岸に戻ってきたいんだけど、岸に近づくとそこには必ず誰かが居て彼に渡してくれと頼むんだ。そうすると彼は渡してやらなければならなくて、そうやって忘却の川を往復するうちに彼は段々何も思いだせなくなっていく。彼はカロンになってしまった。
 本当の彼はカロンなんかじゃないし、そうするともしかしたら前のカロンももともとはカロンじゃなかったのかも知れない。だけど彼はもう自分の名前を憶えていないし、他の人々は自分が川を渡して貰うことしか考えていないから彼に名前を教えてやろうともしないんだ。これが僕の見た神話だよ。
 ……ん、大丈夫。そんなに酔った訳じゃないよ。酷いなあ。信じてくれないの?いいや違うよ、これは作り話じゃない。とても悲しいけど本当の話なんだ。信じてくれないか、僕は本当のことを云っているんだ。え、何だって?だから違うと云ってるだろう。いいか、僕は酔ってないしましてや狂ってもいない!
 いや、いや、いいよ。僕が悪かった。そうだね、僕は少し酔ってるみたいだ。そうだ。これは僕の考えたお話です。少しは君を楽しませられたかな。驚かせて悪かったよ。これを飲み終えたら僕は帰ることにする。僕はただの警察官だしカロンなんて見たこともないんだ。きっと永遠に見ることもないだろうね。死んでしまったら何もなくなるだけだし、僕たちは死後の世界に行ったりなんかしないんだ。
 ああ、いいんだよ、こんな話。すぐに忘れてしまえばいい。忘却の川なんかないよ。所詮は誰かの作り話だ。そんなものがなくたって僕たちは誰の事でもすぐ忘れてしまうじゃないか。うん。ごめんね。迷惑を掛けたみたいだし、僕はもう大人しく帰るよ。お休み。

(忘れてしまえ、何もかも)
(それが幸福というものだ)


着点 (Lキラ)

 その青年が竜崎に対して嫌悪の表情を向ける度に彼は傷ついた。竜崎はまず自分がいとも容易く心を揺さぶられてしまったことに驚き、それからたかだか一人の青年のために自分が一喜一憂してしまうことに動揺した。彼のためになら何だって投げ出してもいい、と発作的に考えてしまった事は最早悲劇的だった。そして竜崎がその考えを抱いたのは一度だけではなかった。
 彼は美しい。夜神月は非常に美しい青年だ。彼があれだけ沢山の人間を殺してきたのだと考えるだに竜崎は感嘆の溜め息を吐かずにはいられなくなる。月は美しい。竜崎は敬虔な信者のように月に頭を垂れた。月が今すぐ竜崎の首を落としたのだとしても彼は後悔の気持ちすら抱かないだろう。だが月はそういった執着を見せるどころか竜崎を全く無視した。彼の頬には冷笑が浮かんでいる。
「云っておくけど、僕には触れるなよ」
 竜崎はしばらく沈黙した。それからゆっくりと口を開いた。
「……月くんが女性でなくて良かった」
「そう」
「あなたが誰かに優しく愛を囁くところを想像すると吐き気がします。男に犯され孕むところを想像するのは拷問のようです。手っ取り早く狂いたくなります」
「ふうん」
「しかし何よりあなたが重い腹を抱えてそっと撫でるところを想像するのが一番最悪です。あなたからは母性本能や愛情を感じたくない、そういったもので媚びるところを見たくありません」
「勝手だな……」
「ええ、」
 月は竜崎などさして気にかけていない。あらぬ方向を眺めながら上の空で返事をする月の唇をくるしく見つめながら、竜崎は薄く微笑んで頷いた。
「……あなたには、あいじょうなどというものは、ありません……」
 囁いた声が月に届いたかどうかは知らない。
 若い神のための巡礼、道は長く神は人間を顧みない。その終着点が見えないのならいっそみちづれにしてやりたかった。


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