赤く染まる指先 / 怠惰 / 人を喰らうもの


く染まる指先 (海砂)

 私は林檎を買ってくる。それは勿論あの死神のためだ。彼は世界中の人間や動物たちが口にするすべてのものの中で唯一林檎だけを好んで食べる。何故林檎なのだろうか。確かに死神たちの砂のような林檎よりはずっと美味しいけれど、それでも。
 だってそれは例えば罪の象徴にしか見えない。あれは正確には林檎とは限らないという話だけれど。
 月と私は決して罪深くはないとは云えない。だからかもしれない、私が林檎に象徴されるほかのおおきな存在を、つよい力をもった何かを思い出さずには居られないのは。
 だけど月はきっとそんな考えを持ったりはしないのだろう。私は私自身を罪深いと思っているけれど、月はそう感じてはいけないのだから。そう彼自身が決めた。彼は正しくなければならない。
 ……ああ、レムは林檎を食べていただろうか。記憶にない。
 私は林檎を買う。林檎だけをあまり頻繁に買うと妙な印象を残しかねないので、私が林檎を買うときには他の果物も一緒に籠に入れる。梨、桃、葡萄、柿、蜜柑、桜桃。季節の果物を手にしてゆっくりと時間を掛けて選ぶ。林檎は死神のために用意されるので、月は大抵他の果物だけを食べて林檎には手を付けない。だから私は林檎以外の果物を選ぶ時にもよく気をつけている。
 私はよく選んだ果物を抱えて部屋に戻る。手にしたひとつを果物ナイフで丁寧に切り分けて器に盛ってから、私はフォークを二本それに添えた。細く華奢な銀器は室内にさしこむ陽光を受けてなめらかに光る。誰も居ない部屋の中、私はソファに座って器に並んだみずみずしい果物をじっと見つめる。
 それから、テーブルの端に置いてあったデスノートをその器の横に並べた。日の光を浴びても、名前を書くだけで人を殺すことのできる馬鹿馬鹿しい黒いノートは砂になって消えたりも、あるいは蒸発したりもしなかった。それは私にとってすべての始まりと切っ掛けと救いだった、同時に呪いであり恐怖でありまた永遠に逃げ出せない悪夢の扉でもある。
 私はしばらく果物とノートを見比べてから、そっと器を脇へと押しやった。ガラスはひんやりとしていて、少し長く伸ばした爪の先が当たって清廉な音をたてた。それから私はデスノートを開いてそっと名前を思い出してみた。今日道で擦れ違った男。顔と名前しか知らない。多分何の罪もないだろう。名前の後に死因を続けて書いた。
 私は鉛筆を置くと、目を伏せてそっと黒いノートの表紙を撫でた。地球上のどんな物質とも違う、不思議な感触。これが人々の命を飲み込んでゆくのだ。貪欲なのは命を貪る白い罫線なのか、命を差し出してみせる人間なのか。答えは知れていると、彼なら云うだろうけど。
 再びノートを開き、たった今書いたばかりの名前を慎重に消してから、私はそれをいつもの場所にしまった。それからソファに座って月の帰りを待つ。目の前には切り分けられた林檎。剥かれていない皮がつくりものめいてつややかに赤い。
 罪深いと思うのは罪を犯しているからだ。人々を裁くものの膝許で罪を犯す私が大切な私の刑吏にとらえられた時、その時こそ私は懺悔するだろう。罪人にこそ神は眩しい。
 私は罪のあかしをひときれ口にした。私の仕えるものの前で無垢な顔をしてみせるために。


 (L月)

 僕が目を覚ますと、既にカーテンの向こうでは太陽が昇りきって明るかった。昼間独特の遠くから放り投げるような陽光に照らされて僕は何をするより先に溜め息を吐いた。本来なら僕は大学に通っているはずだったのだ。それが、こうして何をするでもなく日々を無駄に過ごしている。それもこれもキラ逮捕のためなのだと竜崎は云うし、僕だって確かにそのためなら生活くらい幾ら差し出したって惜しくはない。だけどそうやって差し出された時間が全てこうして怠惰に過ごすためにしか使われないことに僕は強く不満を抱いていた。横を向くと、案の定竜崎が丸まって眠っていた。
 僕と竜崎の手首はそれぞれ手錠で繋がれているので、僕達は行動を共にするだけではなく寝室も共有している。あまり相手に負担が掛からないように用意された、かなり大きいサイズのベッドはスプリングが適度に利いて柔らかい。どうやらまだ当分起きそうにない竜崎の様子を確かめてから、僕は再びベッドに身体を預けた。敢えて枕許に置いた腕時計は身に付けない。時間などを確認してしまったが最後、時間ばかりが気になってしまって、こうしてごろごろすることは僕にとって苦痛でしかなくなる。
 竜崎は死んだように動かない。僕はすることもないので、いつものように天井を眺めたり手をかざしてみたり、あるいはシーツの皺を伸ばしてみたり、とにかくそういった無駄なことをしながら気を紛らしていた。僕としては一刻も早くキラ捜査の続きをしたい、竜崎がそれこそ無駄だという顔で僕が諦めるのを待つばかりだとしても。だが竜崎が起きて一緒に部屋を移動してくれないことには僕もどうする訳にもいかないし、無理に起こすと逆に竜崎が酷く機嫌を損ねるので閉口する。前回我慢がならなくなって竜崎を揺すり起こしてみたところ、不機嫌な顔をした竜崎が「今日は一歩も寝室からは動きません」と宣言した挙句実際にそれを実行して見せた。僕は幾ら何でも困ってしまって、それでまたひとしきり喧嘩をした。
 僕はかなり長い間竜崎が目を覚ますのを待っていたが、結局待ちくたびれて小声で竜崎を呼んでみた。
「竜崎……竜崎」
 何度か呼んでみたが、返答はない。しばらく小声で呼び続けると、やがて竜崎が少し身じろいで、「何ですか」と不愉快そうに低い声を返した。
「竜崎、そろそろ起きないか」
「起きて何をするんです。私はまだ空腹ではありません」
「そうじゃないだろう」
 僕は眉を顰めて竜崎の丸まった背中を見た。
「お前は食べることと寝ることしか考えてないのか。キラ捜査を続けないといけないだろう」
「……そんなもの時間と労力の無駄です」
「竜崎!」
 思わず軽く声を荒げると、竜崎がひとつ溜め息を吐いてからいかにも大儀そうにこちらを向いた。じっとりと竜崎の死んだような目が向けられる。
「することが無いんですか」
「キラを捕まえるので忙しいよ」
「そうではなく、ここで出来る事はないんですか。私は動きたくありません」
「寝室でキラ捜査が出来るはずがないだろう」
「……捜査以外の選択肢は無いんですか」
「だったら運動でもすればいいじゃないか、お前には必要そうだ……ほら、いい加減起きろよ。何時だと思ってるんだ」
 竜崎は唇に親指を押し当てると数秒黙っていたが、すぐに視線をくいと僕に向けた。
「暇で、運動不足で、苛々しているんですね。だったら自慰でもしたらどうですか。解消されますよ。私は見ない振りをして差し上げますので、ごゆっくりどうぞ」
「な、」
 僕が何か言葉を発するより早く、竜崎はくるりとこちらに背を向けて「では私はもうひと眠りします」と宣言して丸まってしまった。
 僕はしばらく込み上げる殺意を抑えながら竜崎の骨ばった背中や寝癖のついた髪を睨んだ。僕が拳を固めるのはその3秒後、その日の午後は結局喧嘩に費やされた。


人をらうもの (Lキラ、月)

 彼は知っていただろうか。竜崎があれほどまでに追い求めていた殺人鬼、キラを、彼は理解していただろうか。キラとなった彼がまだほんの高校生に過ぎなかったことを、彼自身の何もかもを捧げようと決めたことを、あの探偵は解っていただろうか。ただ情報として知るのではなく。
 僕は暗闇の中うずくまる。キラはとっくに死んでしまった。竜崎も死んでしまった。僕は一人で彼らの居たはずの場所や気配を見守っている。
 もうどうしたって取り返しがつかなくなってから僕は思う。キラももっと早くに気付いてしまえばよかったのだ。人間の命なんて取るに足らないということに。幾らでも代替の利く、ただのありふれた生き物の一種族にしか過ぎないということに。
 彼らは自らを万物の霊長と呼び尊く優れたものだと考えているが、そんな思い込みが何だと云うのだろう。死神が人間を殺すのに理由は要らない。彼らが必要とする時にその命を喰らう、そんな行為が人間が家畜を食すこととどれほど違うと云えるのだろうか。
 人間が死神たちの家畜なのだとしたら、理想なんて何のためにあるのか。殖えすぎず減りすぎず、大人しく家畜小屋の中で丸まって食べること寝ることだけを考える、それしか彼らには求められてはいない。
 キラはそれに気付けば良かったのだ。彼は死神の存在を知った。人間を欲しいまま屠っては喰らうものの存在は、彼に現実を見せはしなかったか。知っていてなお全てを変えようとしたのなら、多分彼はそれほどまでに人間たちを愛していたのだろう。
 ……竜崎はそれに気付くことが出来ただろうか。
 キラには竜崎しか居なかったのだった。彼に残された選択肢は決して多くはなかった。全てを忘れてしまうか、彼自身が定めた義務を果たすか。彼は何もかも忘れてしまいたかった。何も知らないまま、目に見えるものだけが全てだと信じてさえいられたら……。
 竜崎だけがそれを可能に出来る人間だった、そして彼がそれに成功することは無かった。
 キラはもう死んでしまった。竜崎と一緒に。こうして動いているものは、キラが遺した望みと意思の断片だ。だから今キラと呼ばれているものは、もう躊躇うことも後悔することもない。彼はただ、するべきことを果たすために生き、動いている。彼は新世界を造るのだろうか。砂上の王国を。
 キラは死んでしまった。僕は黙って暗闇の中でうずくまる。キラのもう一つの顔だった僕。僕も夜神月という名前を失ってしまった。
 全てを見届けたら、僕も消える。
 死神たちの嗤い声を聞きながら。


戻る