サイアナイドの

 罪を犯すことよりも罪に対する無感動が怖ろしいと、誰かが云わなかっただろうか。
 夢の中で竜崎は生きていた。全く何もかもが今までの続きと変わらなかった。もう死んでしまったけれどキラかも知れなかった男、何で構成されているのかさえ解らない薄っぺらい死神のノート、それと共に姿を現した白い死神。
 月はつい先程まで自分が捜査資料に目を通して居たことを思い出し、はっとして再び目を無機質な画面に戻した。
 これは夢だった。竜崎が自分の僅かな隙に気付きはしなかっただろうかと横目で素早く確認しながら、月はむしろそれが否定されることを祈るようにそう考えた。漠然とした不安が月の視界を重く圧迫している。
 月は敢えて疲れを覚えたような素振りをしながら少し椅子を引いた、「ああ、僕は疲れたよ竜崎……」
 疲れなど月の18歳らしい健康な体のどこにもなかった。ただ月はそんなことを云いながら、稼いだ時間であの日目の前で死んでいった竜崎の様子を反芻していた。驚愕と生命を失うことへの恐怖に叫んだのは、死にゆく竜崎ではなく生を約束された人々だった。月だけが何もかもを知って落ち着いていた。竜崎の心臓が止まる、血液が循環をやめる、脳に酸素が回らなくなって竜崎と呼ばれていたものが完全に死亡するまでの僅かな時間、月が見せ付けるようにして浮かべてみせた笑顔に、勝利の快哉を叫ぶ気持ちはほぼ籠もっていなかった。自分では殺戮と勝利に酔っているはずだったしそう信じてさえいた。しかし結局竜崎を殺したことは、月にとってはキラとしてするべきことをまた一つ済ませたというだけのことだった。あんなにまで殺したいと夢見てさえきた男を屠った狂おしいほどの悦楽を、月が感じることはなかった。
 月の隣に座る、今なお生きて呼吸する竜崎がこちらを見る。彼は感情を持っているのだろうか。あるはずの感情を殺し続けるこの男と自分は根本的に違っている。自分に感情があるのか、その問いすら抱かなくなった月にはおそらく竜崎の感情など到底理解する事は出来ないのだった。
 竜崎の底知れない目が月に云う、あなたは疲れを覚えたりなどしません。あなたが疲れてしまったとき、その時はあなたが全てを諦めて死を受け入れるときです。
 だがそれは月の錯覚だったのかも知れない。竜崎はただ頷いて「それでは少し早いですがお茶の時間にしましょう」とだけ云った。
 鎖で繋がれたままソファに移動して、向かい合って座る。月と竜崎の前にそれぞれ置かれたティーカップに老人が紅茶を注ぐのを視界の端に入れながら、二人とも何も云わない。この日から数日も経たないうちに殺されてしまうはずの竜崎は、ケーキが差し出されるのを待ちかねたようにひょいと手を伸ばすと、華奢な皿に載せられた何層もの甘いクリームとパイにフォークを突き立てる。さくりと軽快な音をさせて、コアントローが甘く香った。
 また不安が込み上げるのを感じる。不安があるのなら自分にも感情は存在するはずなのだと月は考える。だがその不安のようなものは、月が掴もうとすればするほど煙のように掻き乱されて薄まっていくのだった。
「夜神くんは空腹ではないのですか」
 声を掛けられて、月はするりと黒くよどんだ自分の裡から目を背けて竜崎を見る。
「……まだ僕をキラだと疑ったりはしないのか」
「夜神くんへの疑いは、先日も云ったように、もう晴れました」
「僕は竜崎が一個人としてどう思っているのか聞きたいんだ」
 月がそんな言葉を口にしたのは、罪悪感を覚えたためでも、これから起こるであろう未来を防ごうとしてのことでもなかった。そうやってみることで、自分が罪悪感というものに襲われることを、月は期待しているのだった。
「私は……」
 竜崎が珍しく言葉を濁して俯くのを月はじっと見守った。幾ら耳を澄ませてみても、嗜虐的な衝動も冷笑的な同情も、その気配さえ感じられなかった。月は何の感動も覚えてはいなかった。
「正直なお前の考えが知りたい。それで僕が怒ったり悲しんだりはしないから、聞かせて欲しい」
 そう云ってみせる月は自分の見下す沢山の下卑た人間たちと何ら変わらなかった。優しげな様子を装って見せることは、厳しく問い詰めるよりも性質が悪かった。
 お前にも少しは僕がキラじゃないと思える部分があるのなら、とは月は続けなかった。竜崎と月が築いてきた関係は少なくとも竜崎に影響を及ぼしていた。例えば、月を傷つけたくないと願うような。そして月を傷つけてしまうことがそれ以上に竜崎自身を傷つけるような。
 それでもその言葉を控える月の気持ちに優しいいたわりは全く無いのだった。
「私は、……私には、未だに夜神くんがキラであるように……思えます……」
 それは非常に曖昧で、常の竜崎からは考えもよらないほどに自信の窺えない発言だった。月はそこから竜崎が自分に向けている好意の気配を掴んだ。それは月が知っているよりも深く、優しく繊細で傷つきやすかった。だが月は何もしようとはしない。その好意に対して何も感じていないのだ。だから月は躊躇わなかった。
「竜崎はまるでそれを否定したがっているようだね」
 竜崎が再びさっと顔を俯けた。自分を慕う男が頭を垂れるさまを見ながら、月はこれが夢であることを思い出している。月はまだ諦めていなかった。
 どうすればいい、何かを感じるためには。愛情も悲しみも同情も憎しみさえ月の中からは徐々に色褪せていった。実際に竜崎を屠る前、手錠で繋がれていた頃に感じていたはずの鮮烈な感情が月にはもうない。あるいは最初から無かったのだろうか。何もかも忘れてまっさらなところから始めた自分だけがそれに辿り着けた。なら、自分は。僕は永遠に何も感じないのだろうか。何も。
 月はそっと竜崎に身体を寄せ、目を伏せてくちづけた。触れ合う唇。じっと自分を見つめる竜崎の目に、月はとうとう記憶の無い自分だけにこうする権利があったことを知った。そっと唇を離し、竜崎の吐息を感じる。しかし月の中にはなにもなかった。
「……だけど竜崎、僕は」
 終りへと急速に収束していく夢の裾を掴んで月が微笑む。痛みはない。
「僕がキラなんだ……」
 月は目を開けた。夢の断末魔を聞きながら現実が厳かに君臨する。
 青酸カリにぽつりと落とされた水、それを零したのは僕ではない、僕ではない、僕ではない。解かっていますよと竜崎の声が云うけれどもそれは月の死にゆく願望でしかない。
 月には記憶だけが残されている。記憶だけが月を動かしている。死んでしまった竜崎以上に月が亡霊らしく虚空に漂う。




サイアナイド(cyanide)とは青酸カリ(シアン化カリウム)のことです。青酸カリはそれだけでは何ともないもので、空気中に放置しておけば重曹になってしまいますし、水に溶けたり酸と反応しない限り毒物とは云えません。致死量の0.2gも、量としては少ない訳でもないのです。しかし一旦毒物として作用すると、細胞呼吸に障害を起こさせ対象をごく迅速に死に至らしめます。
Lとキラについて考えていたら、ふとこれを思い出しました。サイアナイドは、だからキラのことです。


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