青年はふと足を止め、ほとんど無意識に後ろを振り返った。長い廊下の突き当たり、彼が数秒前に立ち去った部屋の扉は既に閉ざされている。その時になってようやく彼は不思議そうな表情を浮かべた。美しいが無機物じみて無感動な青年はしばらくそうして子供のように、恐らくただ純粋に、不可解な表情でその扉の内側に居るはずの男について考えていた。男と、その秘密について。
 そうやって青年は扉を眺めていたが、やがて扉に背を向けて歩き出した。今更引き返すには何もかもが遠すぎた。扉の向こう側にあったはずのものを、彼は永遠に理解しない。

 その男は決して月には名前を教えようとしなかった。彼は月に対して幾つか偽名を名乗ったし、月や彼の周囲の人間たちにそう呼ばせもしたが、それは決して彼の本当の名前であるはずがなかった。竜崎、と彼を呼ぶたび、そして彼が応えるたび、月はそこに秘密の甘ったるい残り香を感じた。恐らく誰よりも優れた人間であるこの男の存在は確かに苛立たしかった、だが同時に彼が月に跪いてみせるさまは月を他のどんなことよりも満足させた。月は最初は半信半疑で嫌々竜崎に会ったが、今では期待さえしている。何にでもすぐに興味を失ってしまう月がこうして一人の人間に対して関心を抱き続けることは実に稀だった。彼は日に何度も竜崎のことを考える。次に彼に会うのが待ち遠しい。竜崎は僕の事を考えるのだろうか。
 竜崎はおかしな男だった。一個人が掌握するべきでない程の権力と能力を抱えてなお、人間の持つ醜い欲望からは完全に切り離されているように見える。実際、月には竜崎が自らの力に溺れる姿を想像することすら難しかった。正義と呼ばれるものを行使し自らの命さえ投げ出して見せる彼は恐らく聖人と呼ばれても不思議ではない、しかし月にしてみればそんな人間は目障りなだけだった。聖人は神に従うべきもので、神の正義に疑問を投げてはいけない。月は竜崎をつよく憎んだ、彼が月の足許に平伏して情けを乞うまでは。
 そう、竜崎は月に平伏した。月を讃えそのまなざしが意識が彼に向けられることを切望した、月に望まれることが彼の望みだった。彼の正義が彼の抱いた望みによって変容する事はなかったが、それでも彼が何も犠牲にしなかったはずがなかった。
 竜崎の望みはやがて叶えられた。月は自らの前に跪いて見せた竜崎に打って変わって優しく接し始めた。月は竜崎を受け入れたばかりか竜崎の望むだけ自らを与えた。月にはそれが愉快だったのだ、彼が目の前で力を失って墜落してゆくさまを眺めることが。
 竜崎は恐らく何もかもを月に捧げた、しかし月はそれを確信することは出来なかった。竜崎は彼自身が云うにはLであり、月をキラだと疑っている。彼が本心から月にひれ伏すことなどあるのだろうか。平伏した懐に毒を塗った刃を隠しているのではないのか。月は常に竜崎を疑っていた、何故なら彼には月に明かさない秘密が未だに一つあった。竜崎はどれだけ月に揺すぶられても自分の名前を明かそうとはしなかった。そして慇懃に月の情けを乞ってみせるのだった。
 「名前も知らないなんてかなしいことだよ」と月は呆然とした表情で云って見せさえした。月と竜崎はテーブル越しに手を握り合っていて、月は日没直後の酷くそらぞらしい群青色の中で例えようも無く悲しげに見えていたはずだ。それから月は自らを制するように軽く微笑んだ、優しくかつ苦しげに。それは全て月が竜崎の名前を知るために演じて見せたごく短い芝居だった。しかし竜崎は「そうですね、しかし私の名前を知ったらあなたと私の間は永遠に隔てられてしまうでしょう、私はそれ以上の悲しみを知りません」と静かに月の詮索の手を宥めるのだった。
 竜崎は既に自らの全てを月に暴かれていたはずだった、ただ彼の名前を除いて。その秘密がある限り竜崎は自分のものにはならないような気がして、だからこそ月は尚更竜崎の本当の名前を知りたがった。竜崎の名前を手に入れ、それを一文字ずつ丁寧にノートに記すことを考えると月はいつだって満たされた気分になれた。目的を達成してしまった後の空虚さを心配してしまうほど。月は竜崎にくちづけられる時や肌に触れられる時、頻繁にその想像をした。それはひどく甘く、月は官能的と呼べるほどのイメージの中、殺戮の欲望に塗れた声で度々竜崎を煽った。

 月が娼婦のように飽きっぽく、誠実で、倦怠の中で破滅を夢みながらも、しかし飽くまでも現実の中に生きていることを竜崎は知っていた。支払われた代価の分だけ幾らでも自分を切り取って与える、月は実際立派な娼婦のようだった。月が竜崎に興味を抱くのは、ただ竜崎の名前を欲しているからだけではない。竜崎が自分に陥落してゆくのを今か今かと楽しげに見守っているのだった。これが自分を破滅にみちびくものだ、竜崎は脳の片隅で低く呟く声を聞いた。かれがやがてはお前を殺すだろう。
 竜崎は勿論表面上は月を大切に扱った。月が望むものなら何でも差し出して見せた。また竜崎は月に様々なものを望んでみせた。だが竜崎が月に決して気を許してはならないという自戒を忘れることはなかった。まだ本当には月を愛してしまってはいないということが、竜崎の大切な秘密だった。それこそが竜崎が月を繋ぎ止めるただ一つの絆だったから。その証拠に、竜崎は自分から月に触れようとはしなかった。いつだって竜崎は月を誘導してそれを誤魔化していた。重ねた唇から、抱き締めた鼓動から、感情が零れてしまうことを竜崎は怖れていた。そうやって防がねばならないほどには竜崎は既に月によって堕落させられていた。
 だから竜崎が月にくちづけたのは純粋に衝動からだった。自分のしてしまったことにすぐさま動揺した竜崎を月はじっと見つめていた。月は少しばかり驚いた顔をしていたが、すぐににこやかに微笑んで見せた。その笑顔に切なく胸が締め付けられるのを感じ、竜崎は黙って月を抱き寄せると小さく溜め息を吐いた。竜崎は認めざるを得なかった。月は竜崎にとって無くてはならない人間になっている。そうしてその愚かな感情は彼を結果的に殺してしまうのだ。
 月の身体は青年らしく伸びやかで、髪はさらさらと柔らかかった。月は気付いただろうか、気付いたなら彼はすぐにでも秘密の息の根を止めるだろう。残酷な純粋さで微笑む青年はやはり竜崎の目に美しくうつっている。
 数日後、月が竜崎の前に姿を現したや否や、竜崎は最後の秘密を失ってしまったことを知った。月はとうとう辿り着いてしまったのだ。白日に晒されたその秘密は月の求めていたものではなかったが、それだけが竜崎の拠り所だった。竜崎の秘密を暴いた月の表情や仕草は平素と全く変わらなかった、だが竜崎は彼の視線に明らかな侮蔑を見つけていた。竜崎は胸の痛みに息を詰めた。
 月は竜崎が気付いたことに対して何の反応も見せなかった。月は普段通り竜崎と言葉を交わしたしそれどころか幾らか楽しそうな様子さえ見せていた。それで竜崎はそれが彼の表面上の振る舞いだということにようやく気が付いた。月は自分と居た時にはまだ少しは素顔のようなものも見せていたのだった。しかし何もかもが遅かった。彼の視界の中、竜崎の存在は最早すっかり色褪せて他の景色に溶け込んでしまっているのだった。
「……それじゃあ、竜崎」
 去り際に月が云って手を上げた。シンメトリーの笑顔はつくりものめいて美しかった。
 竜崎は椅子の上に丸くなったまま俯いてしばらく黙っていた。最早全ては手遅れで、竜崎に出来る事など残されてはいなかった。竜崎は静かに月を呼び止め、自分の名前を告げた。




丁寧に書こうと目論んでいたのですが力尽きました。恐らくもっと短くシンプルに纏めた方が向いているのではと思える出来です。
谷崎潤一郎『秘密』パロディと云うか、そのコンセプトを私なりにアレンジしてみました。重点はどちらかと云うと秘密そのものよりは竜崎と月の相互不理解にあります。何故竜崎が自分の命を投げ出してしまったのか、月がずっと理解できずに居るのもまた切ないけどありえそうだなあと思って。


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