寄り添った身体は暖かかった。
 立ち尽くしたまま竜崎と月はそっと手を握りあい、相手の肩に頭を預け、お互いの体温に身を任せていた。竜崎と月は限りなく近い場所に居たけれども、それは彼らの精神が近くにあることの証明にはならい。だがそれでも二人は手を繋いだところから相手が少しずつ自分に浸透していっているように感じていた。
 体温がゆるやかに二人を往復してゆく。このままこうしていつまでも手を繋いでいれば、きっと二人の体温は段々と同じ温度になっていくのだろう。それは見たこともないような幸福だった。
 二人はしばらくそうやって夜の公園を眺めていた。ぽつりぽつりと遠くに見える街灯の光は遠く、夏の風は少し湿っている。
「……探したよ」
「そのようですね」
 竜崎は夜空を見上げたまま小さく頷いた。晴れた空に星が幾つか浮かんでいる。月は竜崎が見ている星を探して軽く視線を彷徨わせた。
「いい夜だね」
「はい」
 とてもいい夜だ、月はもう一度繰り返した。月も竜崎も不思議なくらい安心していた。寄り添って眺めるぶらんこやすべり台は月光に照らされて信じられないくらい美しく、いつ目がさめてしまってもおかしくはないように思えた。
「この夜をずっと待っていた……」
 月の声はほとんど囁きのようにひそめられていて、竜崎の耳にどこか甘く響いた。竜崎は黙って夜空を眺めている。
「もうこんな夜が二度と無いのかと思うと、少し惜しい気がするけどね」
 月はつとめて軽い口調で囁いて少しだけ微笑んだ、微笑みながら竜崎がそのまま星を見ていればいいのだけれどと思いを巡らせた。その時になって竜崎が視線をゆっくりと空から隣に立つ青年に移した。
「夜神くんらしくないですね」
 竜崎の表情は相変わらず月に彼の考えていることを読ませたりはしない。竜崎の感情の気配すら月には窺うことができなかった。
「キラらしくないと云いたいんだろう」
 咎めるように竜崎に視線を向けると心なしか困ったように首を傾げ、「すみません」と謝罪した。月はそれですっかり機嫌を直して再び微笑みながら竜崎の肩にそっと頭を凭せ掛けた。珍らしい、今夜はやけに素直じゃないか。だがそれが楽しくもあった。二人は優しく唇を重ねあった。
 何度か唇を重ね、名残を惜しむように目を伏せて身を引いた月が再び竜崎を見て微笑むのを彼はじっと待った。彼らは始終無言だった。月は少し頬を紅潮させて数回睫毛を震わせた。その睫毛の下から月らしい真摯な目が竜崎をとらえ、結び目が解けるように月の表情が緩むさまを竜崎は見つめていた。
 月が再び竜崎にくちづけたのが引き金だった。
 二人の影が揺れる。ひたりと首筋に押し付けられた冷たいものに月はかすかに眉をひそめた。月の咽喉にはナイフが突きつけられている。同じく、鈍く光る銀色を掴んだ手に少し力を籠める。刃先が僅かに食い込み、間近に感じる竜崎の気配が一瞬緊張したことに満足して月は慈悲深く微笑んだ。
「準備がいいね」
「そうしてもいいと云ったのは夜神くんです」
「そうだったかな」
 月が猫のように目を細めて唇を吊り上げると、竜崎が何かをこらえる表情で呟いた。
「……これでいいのですか、本当に……?」
「何よりも。どんなものよりも、お前がいつだって僕を一番揺すぶるんだ、竜崎」
 月が竜崎の言葉を抑えて挑戦的に視線を投げた。
「だけどその事実とお前を裁くかどうかの判断は別だということを、解っておいた方がいい」
 二人とも視線をお互いに固定したまま、しばらく身じろぎもしなかった。月の考えていたよりも月と竜崎の距離は遠ざかったように感じられない。それは最初から遠かったという意味なのだろうか。
 ただ、ひんやりとした刃だけが二人を繋ぎ止めている。
「僕にとってお前は僕の全てだと云えるけれど、僕の望む世界にお前が存在出来る意義なんて欠片だってありはしないんだよ……」
 月は月光を背負って薄く笑みを浮かべた。竜崎にも月の考えは読めなかった。彼の表情は楽しげですらあった。返答を待つようにじっと竜崎の反応を待っている。
 月に突き付けたナイフの下にある彼の柔らかい皮膚を竜崎は見つめた。それから、あらゆる思考を放棄してただ月の笑顔をもっと見たいとだけ考えた。しかしそれには彼を取り巻く全ての要素がそれを彼に許さない。
「……」
 竜崎は悲しい顔をして月を陥れる方法を模索する。逡巡する僅かな時間だけが彼に与えられた猶予だった。
 月は少しの間竜崎が何か言葉を発するのを待っていたが、やがて穏やかな目で竜崎を覗き込んだ。
「解っているだろう。……するべきことが、何なのか」
「はい」
 竜崎は頷いた。目を閉じて深呼吸をする竜崎を月は見守っていた。竜崎が目を見開いた瞬間つよく振られたナイフを避けて、月は数歩飛び退った。ぼたぼたと黒く湿った土に黒いものが零れる。首筋が微かに切れて傷口が空気に触れるのが解ったが、出血はほとんどない。滴った血は竜崎のものらしい。
 月はもう半歩下がって間合いを取った。ある程度の護身術のようなものは知っているが、ナイフには全く慣れていない。そもそも素人同然の月が扱うべきではない武器だ。それでもこの方法を提案したのは竜崎で、承諾したのが月自身だった。
 移動したことで光の角度が変わり、竜崎の首の傷が照らされた。浅くはない、だが致命傷からは程遠い様子だった。竜崎は無表情のままナイフを隙なく構えている。竜崎はじりじりと下がりながら間合いを探る月から目を離さないまま、月がとった選択の理由を考えていた。竜崎の名を黒いノートに書き込んだ理由を、すぐにでも殺せたのにこうやって呼びだした理由を、ナイフを拒まなかった理由を、それから彼がキラでいる理由を。月はそれらを全て理解した上でこうした行動をとっているのだろうか。解らない。だが何時までも悠長に考えている訳にはいかなかった。自分には幾らも時間は残されていないのだ。月が指定した時間は間もなく、あの薄っぺらいノートはそれでいてどこまでも正確だ。
 先に動いたのは月の方だった。刹那、刃を鈍くひからせて、ナイフが真っ直ぐ自分を目指してくる。やはり、慣れていない。反撃に余裕を持って避けようとして、竜崎は月の肘が低く下がっていくのに気付いた。直線が歪んで下から突き上げてくる腕を、更に下方から追い上げるようにして切りつける。刃同士がぶつかりあった。びりびりと腕に衝撃が走り、月のナイフが弾け飛ぶ。同時に、不利を悟った月が左手をうつわの形にして竜崎の耳にぶつけた。三半規管に叩きつけられて、酷い衝撃に一瞬視界が歪む。咄嗟にとった行動なので気絶させるだけの威力は無かったが、竜崎がやや体勢を崩す。月はその機会に乗じて自分の左、竜崎の体が向いた反対方向へと走りだした。
 月は公園を抜けて夜道を走っていた。あたりは静かで、ひとけがないばかりか灯りすらまばらだ。澄んだ夏の夜の空気は月を引き止めない。聴こえるものは自分の呼吸と足音、それに無言で追いすがる竜崎の分の足音だけだった。二人の影は細く長く途方に暮れて、呼吸音に反響するようにしてアスファルトを滑る。後ろの足音は徐々に迫っている。
 月も竜崎もひたすらに走っていた。二人して言葉も無く夜道を走る、それは恐らくとても滑稽な光景だった。月は走りながら可能な限り冷静に決意を固めようとした。この状況に恐怖を感じない訳ではない。実際、月は怯えてさえいた。既に彼は武器を失ってしまった。ナイフを相手に素手でわたりあうことがどれだけ馬鹿げているか、知らない訳ではないのだ。だが月はもう辛い選択を繰り返すことに疲れてしまっていたし、だからこそ竜崎に殺されてしまおうと考えたのだった。自分のするべきことを放り出す訳にはいかなかった、沢山の人間を屠ってきた彼にはその義務があることを月は知っている。それはちょっとした間違いになるだろう、月は準備したナイフの柄を握り締めてそう自分に云い聞かせた。キラは出来るだけのことをした。そうして些細なミスで今夜命を落とす。悲しいことだ、だがそれだけだ。人々はキラを失っても生きるだろう。彼は世界を人間をよく理解している。
 月は開けた場所をようやく見つけ、立ち止まって振り返った。月は決して冷静とは云えなかった。彼は圧し掛かる恐怖の重量に喘いでいたが、月も後から追いついた竜崎も何も云おうとはしなかった。二人はしばらく黙ってお互いを見ていた。しかしその沈黙も長くは続かない。
 竜崎がナイフを構えた状態でゆっくりと月に躙り寄るのを目の当たりにして、月は最早恐怖に青褪めていた。彼はこれほどまでに何かを怖れたことがなかった、少なくとも彼は自分が何かに怯えることを信じていなかった。だがそれは抑制のしようがない本能的な恐怖だった。月も死がおそろしいのだった。
 しばらくどちらも動かなかった。竜崎は口を開いて何か云おうとしたが、躊躇ってからそれを諦めた。青褪めたまま竜崎を凝視する月は一種落ち着いて見えていた。しかし実のところ月は怖れで混乱さえしている。
「……!」
 月が逃げるべきか遅疑している間に竜崎が一気に距離を詰め、ナイフを振るった。咄嗟に何とか避けたものの、右腕を焼けつく感覚が襲う。ぱっと散った血が竜崎の頬を掠めて、それがどうしようもなく月が竜崎に感じる脅威を煽った。
 殺される。殺される。それでいいはずだろう。殺さなければならないのなら一緒に死んでしまいたい、そう思ったはずだ。殺される。殺される。待っているのは死だ。死。圧倒的な恐怖に、月は自分が何も考えられなくなるのを感じた。どくどくと駆け巡る血流の音だけが頭の中で響き渡っている。……いやだ、死にたくない!
 間髪を入れずに閃いたナイフを思わず右腕で受けた。つよい衝撃。だが死への恐怖を叫ぶ声は一層声量を増して月の脳内で喚いている。本能に叱咤されて、痛みを判別するよりも先に左手で竜崎の手首を掴み、強く引き寄せながら右肘を顔面目掛けて打ち込む。
「うっ……」
 痛む右腕に力が充分に入らなかったためか、竜崎は呻いたもののよろめきもしなかった。それでも一瞬怯んだところに更に膝蹴りを腹にきめる。今度こそ苦痛の滲んだ声が上がり、ナイフが月の手の中に滑りこんだ。殺されたくない。死にたくない。死にたくない!
「う……あああああ!」
 強く歯を喰いしばり、月はナイフを竜崎の腹に突き立てた。ぐらりと体勢を崩した竜崎からナイフを引き抜いて、後ろへと倒れる身体を地面に叩き付けるようにしてもう一度力の限り振り下ろした。……

「……は、……はあ……」
 気付けば月は倒れた竜崎の上に居た。月の心臓はもう月のものではなかった。響く鼓動はどこか遠くから何度も反響して月を群集のように攻めたてている。蝶のように地面に縫い止められた竜崎は細く呼吸を繰り返す以外に動きを見せなかった。ナイフを握ったままの両手は傷口からゆっくりと溢れる血で暖かく、月はぜいぜいと喘息しつつ、自分の下に力無く横たわる男を見下ろしている。
「あ……あ……」
 竜崎は顔色をなくして唇を震わせる月を見た。その向こうに広がる夜空を見た。手足から徐々に体温が失われてゆくのを感じたし、自分の負った傷が致命傷であることは解っていたが、彼はただ考えていた。月がナイフで殺しあうことを承諾した理由を、竜崎の名前をノートに記した理由を、こうして竜崎を手に掛けておきながら愕然とした表情を見せる理由を、彼はただ知りたかった。「月くん……」竜崎は口を開いて月に訊こうとした、だが彼の口からは言葉の代わりに血液が塊になって二度三度と零れただけだった。視界が焦点を失ってゆく。月の表情は月光の影になってもう見えない。
「竜崎……」
 最後に月が自らの手を実際に血で染める様子を見てやりたかった。或いは自分が月を殺すのでもいい、どちらにせよ竜崎はそれでキラを殺せたはずだった。少なくとも、自分の中からは。現に月はこうして両手を竜崎の血に染めている。しかし竜崎には最早快哉を叫ぶ気持ちは無かった。これでようやく全てが終わることに少し安堵していた。そして少しだけ、月が自分との死を選ばなかったことを寂しく感じていた。彼には選択肢があったはずだった。ナイフでの殺し合いを提案した竜崎に頷いたのは、月も竜崎のように何もかも終わらせたいと考えてのことであって欲しかった。月がキラ以外のものに、竜崎がL以外のものになれるはずがなかった、だから二人が自らのアイデンティティを捨て去るには恐らくこれしか方法が無いと、そう思っていてくれたのなら……。失速してゆく脳ではそれ以上考える事が難しかった。あるいは月は竜崎を自らの手で殺したいほどに憎んでいたのだろうか……疑問だけが雪のように降り積もってひんやりとしてゆく中、竜崎はとうとう考えることを諦める。ゆっくりと目を閉じて溜め息をひとつ吐いた。
「竜崎……竜崎……」
 月のキラへの、ひいては世界へのささやかな反抗は幕を閉じようとしている。月は動かなくなった竜崎に縋りつくことも出来ずに呆然とすすり泣いた。ひとしきり涙を流し、月は竜崎だったものをふたたび見つける。それはあまりにも酷い冗談だった。
 本当は自分が死んでしまいたかった!殺したくなんてなかった!恐怖に負けた自分が憎い、幾ら自分が変えようとしても理不尽なままの世界が呪わしい。全てに向けて呪詛を吐き散らしたかった。何もかもを、月は心の底から憎んだ。だがそれでも月はキラであり、今やそれだけが月に残された唯一の拠りどころだった。月が裁くものではなく裁かれたものだということを知る人間は月以外にもう居ない。




某さんに捧げさせていただきました。


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