精神が軋むほどに張り詰める音を聞いた気がする。 ハンドルを握る手に過剰な力が入っているのを僕ははっきりと自覚していた。背筋も不自然に伸びていて、全身の筋肉が硬直している。速まってゆく鼓動がうるさい。僕はごくりと咽喉を鳴らして貧血の症状に似た耳鳴りと目眩、それに血の引いてゆく感覚を押し殺そうと努める。耳鳴りは一向に止まず、呼吸はますます苦しくなった。心なしか視界が狭い。だが僕は瞬きもせずに前方を見つめる。 隣からの視線を強く感じる。一際強く握り締めたハンドルの革がぎゅっと鳴った。 「駄目だ。いけない」 僕はとても切羽詰った口調で云う。額に厭な汗が滲んでいる。 「これは……こんなのは間違っている、××××。僕はお前がそんなことに耐えられるとは思わない」 返事は無い。視線の強さも変わらない。 僕は胃の底から込み上げてくる吐き気にも似た感覚と戦いながら、更なる焦燥を込めて早口で同じ言葉を繰り返した。 「お前が、そんなことに耐えられるとは思わない。僕はそんなことを」 そして僕は解り切った嘘を吐く。 「……そんなことを望んでなんかいない」 僕は自分自身の嘘に絶望する。 バビロン、あるいは藝術家の死 視界が開ける。白い。 一瞬何がなんだか解らず、同時に間髪を入れずこめかみを襲った鋭い痛みに思わず目を閉じて、僕は呻き声を上げかけた。しばらくその突発的な頭痛が治まるのを待ってから、僕は目を閉じたまま顔を軽く左右に向けた。どうやら上の方、それも右上のあたりが特に眩しいようだと瞼越しに判断して、そちらを見ないようにしながら今度は慎重に目を開けた。 白。白。 先程よりはずっとましだったが、一面の白にいちいち光が反射して、まるで洪水のようだった。 身じろぎすると全身に走る鈍痛。胸元まで掛けられた白いシーツ。そして白いカーテンで仕切られた白い部屋。自分は病院に居るらしい。 僕はようやく慣れてきた目で辺りを見回した。部屋は静かだ。右側の壁にある窓には白いカーテンが引かれているが、厚い布地を通して差し込む光は昼のものだ。僕の寝ているベッドの周りには点滴以外の医療機器は無く、つまり僕の状態は点滴以外は必要としない程度のものなのだろう。起き上がれるかどうか試そうとした途端に肋骨の辺りに走った痛みに顔をしかめながらそう判断した。痛みを感じるということは生きているということだ。 とりあえず看護婦なり医師なりを呼ぶべきだろう。 僕は起き上がろうとして、唐突な苦痛に呻いた。 「……っ、ぅう……!」 どっと冷や汗が噴き出す。 左腕はすり傷でも負ったらしく包帯が巻かれていたので動かさずにいたのだが、そちらに気を取られていたため体を起こそうとした時についベッドについた右手の手首を、どうやら捻挫していたようだ。 「……っは……」 予想しなかった痛みへの驚きは本来の痛みを増幅させていて、僕は出来る限り手首に負担を掛けないようにしながら体勢を整えた。きっと今の僕は青ざめているのだろうな、と客観的に思うと何故だか少し笑えた。 咽喉の奥で軽く笑いを噛み殺していると、左側のカーテンが少し揺れた。 「大丈夫ですか」 聞こえてきた男の声に僕は目を丸くした。隣のベッドがあまり静かだったので僕以外には誰も居ないのかと思ったのだ。 空間を仕切るカーテンを少し引くと、やや顔色の悪い男がこちらをじっと見ていた。よほど具合が悪いのだろうか、目の下の隈が酷い。彼の額にも包帯が巻かれていた。 「うん、大丈夫だよ……ちょっと怪我している方の手をついてしまっただけ」 「痛くありませんか」 「まあ我慢できる程度だよ」 「そうですか」 男がどこかほっとしたような表情を一瞬垣間見せたような気がしたが、それはあっと云う間に消えてしまったので確かではない。彼は僕をまじまじと眺めながら軽く首を傾げた。 「ところで、あなたは誰ですか?」 僕はどんな答えを返すよりも先にまず息を飲んだ。自分でも何故そうしたのか解らないほど、僕の体の反応は自然だった。どうも意識が混沌としている。名前は数秒をかけてゆっくりと僕の意識の表層まで浮かび上がってきた。ライト、と僕は名乗ったが、本当にそれが自分の名前なのだという確信がどうにも持てないのは何故だろう。 「ライトくんですね。私は竜崎といいます。……では、あなたは誰ですか?」 竜崎は瞬きもせずに僕を見つめている。そんな訳の解らない質問の仕方は馬鹿げている、そう思うのに僕は何故か強い焦燥感に駆られた。だがどう答えていいのか解らない。彼は何が訊きたいのだろう。 僕がいつまでも黙っているのを見て、竜崎は静かな口調でもう一度「そうですか」と云うと黙ってナースコールを押した。 看護婦はすぐやって来て、僕を認めると医者を伴って数分後にまた戻って来た。医者が僕の様子を一通り確かめながら幾つか質問を始めると、竜崎はこちらに向けていた視線をゆっくりと逸らした。 医者によれば僕と竜崎は交通事故に遭い、車の中で何故か手を繋いだまま意識を失っていたそうだ。それを聞いて僕はやっと納得した。同じ車に乗っていたのだから、僕と竜崎には何らかの関わりがあったのだろう。僕は医者の話を聞きながら、その時の状況を何とか思い出そうとしてみた。だが記憶はいくら掬ってもするりと僕の手をすり抜け、澱のようにどこか深くへと沈殿していってしまう。僕の名前は月、僕には誰かきょうだいがいて、昔着ていた制服のネクタイは臙脂色だった。それから? 僕はそこで記憶が妙に混乱していることを医者に云ってもよかった。いや、僕は本来ならそうするべきだっただろう。しかし僕は微笑をたたえて医者に礼を述べた。 医者と看護婦が用を済ませて病室を出て行くのを見送ってから、僕は改めて竜崎の方を向いた。 「竜崎」 「何ですか」 「どうもおかしいんだ」 竜崎は静かな動作で僕を見た。 「記憶だとか思考だとか、そういったものが妙に混沌としているんだ……僕は事故のショックからまだ混乱しているだけなんだろうか、それとも脳に何らかの衝撃が与えられたせいでこうなってしまったんだろうか。いくら考えてもほんの少ししか思い出せない……」 俯いてそう云いながら、僕は強い不安を覚えて唇を噛んだ。予感のようなものが柔らかく芽吹くのを感じる。 竜崎はしばらく黙っていたが、小さく息を吐いてから口を開いた。 「私も同じような状態にあるように思われます。記憶が曖昧としている」 「じゃあ……お前は僕の事を憶えていないんだな」 竜崎が頷いた。 「はい。私はあなたを憶えていません」 僕はきっと何かから逃げてきたのだ。不意にそう思った。 僕と竜崎は、体のあちこちに少しばかり怪我を負っていたものの、それを除けばほぼ健康と云っても差し支えがなかったので、その日のうちに病院を出ることになった。二人とも記憶におかしな弊害があるということは誰にも云う気にはならなかった。僕達はその件については示し合わせたように黙ったまま触れなかった。 病院を出た僕達は持ち物を確認し、何かそこから情報が得られないか確かめることにした。適当に入った喫茶店で、持っている限りのものを広げてみる。僕が持っていたのは少しばかりの現金が入った財布と、ペンやハンカチなどといった細々した幾つかのものだけだった。財布には僕の身許を証明するものは一切ない。逆に、竜崎のポケットから出てきた彼の財布には現金の他に何かの明細が一枚と鍵が入っていた。 くしゃくしゃの紙切れに記された住所は、僕達の居た病院からそう離れていない場所に位置した小綺麗なマンションの一室のものだった。竜崎の持っていた鍵で部屋のドアが開いた。何の躊躇いも見せず部屋に踏み込んでゆく竜崎に続いて、僕も室内を覗き込む。思ったよりも広々とした部屋で、規模の大きめな1LDKのようなものだった。どうやら以前竜崎は一人あるいは二人でここに住んでいたらしく、二人分と思われる衣服や日用品、数日分の食料、それに一定額の現金を僕達は見つけた。 竜崎が寝室の方へと歩いていくのを視界の端に見送りながら、僕は食器戸棚を開けて覗き込んだ。揃いの食器。これも二人分ある。 「変だな……今までここで人が生活していたという気がしない」 「確かにその気配は希薄ですが、恐らくここが整然としているからではないかと思われます」 僕が首を傾げながら呟いた意見に即座に答えてから、竜崎はやや声を張り上げて続けた。 「どうやら私は今まであなたと一緒に住んでいたようです」 僕は少し驚いて竜崎の向かった方を見た。竜崎は寝室に足を踏み入れたところだった。竜崎が寝室に入り、手に何か書類のようなものを持って出てきた。 「少なくとも、一緒に住むつもりはあったように見えますね」 竜崎が差し出した賃貸契約書には夜神月と流河旱樹の二つの名前が並んでいた。 「夜神月。あなたの名前はこういう字で表すのですね」 「……竜崎。これはお前の名前じゃないだろう」 「私の偽名の一つですよ」 竜崎は表情も変えずに飄々と云った。 「私達はきっと何かから逃げてきたんだという気がするんです。月くんはそうは思わないのですか」 竜崎がそうやって僕の目を覗き込んできた途端、僕は咄嗟に何もかも投げ出してこの男に身を委ねてしまいたい衝動に駆られた。 何もかも?今の僕にこれ以上投げ出せるものなどあるのだろうか。僕は何も持っていやしない。 それは恐らく僕が過去に抱いていた衝動だ。だが果たしてそれが彼に向けられているのか、僕には解らなかった。僕はただ黙って目を伏せた。 結局僕と竜崎はその部屋で暮らすことにした。竜崎が果たして僕が一緒に住んでいた相手なのかどうかは依然として解らなかったが、少なくとも契約書には僕の名前があったのだから、僕にも幾らかは権利があるということなのだろう。 それにしても寝室が一つしかないというのは非常に奇妙なことだった。何しろ僕も竜崎も男だし、流河旱樹と云うのも、それが竜崎と同一人物であるとしか思えなかったけれど、別人だと仮定してもそれはやはり男の名前だった。僕は男性と一緒に眠ることを考慮に入れなかったのか、あるいは僕は同性愛者だったのか。しかし僕は特に男性に恋愛感情やそれに類した感情を抱いた憶えはないように思える。 「同じベッドで眠ることが不愉快だと云うのなら、私はソファで眠っても構いませんが」 背中を丸めているせいで低めの位置から見上げられて、僕はちょっと笑った。僕を見上げて唇に親指を押し当てている様子が寂しがる子供のように見えてしまったのだ。 「いいよ、一緒に寝ればいい」 僕は口に出してしまってから妙に後ろめたいような気持ちになって、「……どうせダブルベッドだし、このくらい気にしないから大丈夫だよ」と云い訳のように言葉を重ねた。竜崎がちょっと口角を上げたので、僕もほっとして微笑み返した。 そう云えば、と僕は隣に横たわる竜崎の気配を追って少しばかり落ち着かなくなりながら思い出した。僕はすっかり彼を疑うことを忘れていたのだった。本当なら真っ先に疑うべきだったのに。僕達はお互いの素性どころか自分達の素性だってろくに知らない。彼が強盗か何かだったらどうしようとは思わなかったのか。だが、僕には彼がそんな人間だとは全く思えなかった。 僕は寝返りを打って竜崎の丸まった背中を眺める。やはり僕は彼を前から知っているのだろう。僕と彼はどういう関係だったのだろうか。 ぽっかりと海中から浮上したような気分で目を開ける。目の前には疲れた顔をした男性が居る。 彼は僕と視線が合った途端、心配で堪らないといった様子で僕の肩を掴んで何かひたすらに話し始める。だが僕には何も聴こえないので、黙って相手の顔を見つめる。 男性の髪には白髪が混じっている。 そんな夢を見た。 「僕達は一体何者なんだろうね」 僕はソファに沈み込んだ幾分だらしのない姿勢のまま天井を見上げる。 「……姿勢が悪いですよ、月くん」 「そう云うお前だって人のことを云える訳じゃないだろう……部屋の中でくらい寛がせろよ」 ソファに両足を載せた状態で丸まって座る竜崎に呆れた視線を送ると、竜崎が溜め息を吐いた。 「月くんがこんな人だとは思いませんでした。案外だらしないんですね」 「何をがっかりしてるんだ。僕が普段何でも計算ずくで動いているとでも云いたいのか」 ただの冗談です、と云って竜崎が首を傾げたので、僕もちょっと苦笑する。 「僕は多分学生だったんじゃないのかな」 「そのくらいの年齢ならそれが妥当ですね。それに、見た限り月くんはあまり労働などしたことが無いようです」 竜崎が僕の手を取り、示して見せる。 「これは労働者の手ではありません」 云われて、僕も何とはなしに自分の手をまじまじと眺めた。確かに、あまり荒い作業などはしたことがないのだろう。そんな僕の手を掴む竜崎の骨ばった手は大抵何を掴むにも指先だけでつまむようにする癖があり、今回も彼は両手の指先で僕の手を持っていた。だが不快感は無い。 他にも竜崎が幾つか僕に関する彼の考えを述べるのを聞きながら、僕はつらつらとこの関係について考えた。僕達は逃げてきたのだ。それだけはきっと確かだった。何か、とても大きなものから逃げてきた。僕も竜崎も、そう思っているからこそ未だに警察を始めとする公共機関に赴こうとはしていないのだ。この部屋で暮らし始めてから既に数日が経っている。怪我に巻かれた包帯も粗方取れた。だけど僕はここから出ることを思うだけで微かにだけれども不安になる。一体僕は、僕達は、何から逃げているのだろうか。そして逃げ切れているのだろうか。 「じゃあ、お前は何者なんだろう」 「気になりますか?」 「ん……気にならないと云ったら嘘になるけど、僕はすぐに当てられると思うよ」 僕のそんな意見に竜崎が「きっと難しいですよ」と返したので、僕と竜崎はまた職業や趣味を当てようとしては反論するといういつもの遊びに熱中した。 多分特に深い意味もなく握られたままの手は、二人の間に置かれたまましばらく気付かない振りをされていた。 竜崎は甘いものが好きだ。甘ければ何だっていいのではないだろうかと思わせるほど、彼は甘いものに関しては好き嫌いをしない。一日に一度か二度は糖分を摂取しなければ不満そうな顔をする。彼は普段非常に理知的で時折痛いほど穿った発言だってするような人間なのに、そんなところだけが妙に子供っぽい。だけど竜崎が紅茶にもコーヒーにも躊躇い無く角砂糖を放り込んでいく様子を見るのが、実はとても好きだったりもする。 僕は少しだけ竜崎に関する記憶を思い出した。彼は確か以前どこかのビルの中で、銀色の椅子にあの奇怪な座り方で座ったままぐるぐると回って遊んでいた。それから、角砂糖やらポーションミルクやらを積んで遊ぶ癖も以前からあった筈だ。機嫌が悪くなると食べ方も汚くなることを先日確認した時に僕が呆れたり怒ったりするより笑い出したのは、つい自分の記憶が正しかったことに嬉しくなってしまったからだ。 僕の記憶は未だに曖昧だけれど、僕はきっと竜崎を憎んではいなかったのだと思う。 僕は殆ど毎晩夢を見る。夢の中では必ず誰かが悲しそうな、辛そうな顔をして僕に何か語りかけてくる。彼らは時々怒ったり泣いたりして必死に僕に何かを伝えようとするのだけど、それが僕に伝わることはない。 もしかしたら僕が逃げているのはこの人達からなのではないだろうか、と僕は考えたりもする。そうだとしたら、何故夢の中でまで僕を追ってきては脅かすのだろうか。僕は逃げてきたのだからそっとしておいて欲しいのだ。僕は竜崎と居たい。ずっと竜崎と居たい。 その夜見た夢は普段のものとは少し違っていた。 昼間、僕と竜崎はいつものように紅茶を飲みながら他愛の無い会話をしていた。最近僕達はお互いに触れ合っている方が何だかちゃんと逃げ切れているような気がすることに気付いたので、大抵手を繋いでいたり肩を寄せ合ったりしている。 僕はそうしてとても安心した状態のまま、ふと「竜崎はあまり表情だとか考えを態度や顔に出したりしないから、読み取るのが難しいね」と云った。そうは云っても僕は竜崎をよく見ているので、ある程度なら彼の表情の細かな違いが解る。だからこれは何でもない一言だったのだけれど、竜崎は「あなたはまだ私から何を探り出そうと云うんですか」と呟いて少し悲しそうな顔をした。僕は竜崎がこうも明確に悲しみの表情を見せるところを見た事がなかったので、驚いて謝った。竜崎は構わないと云った、だけど彼ははっきりと傷ついていた。 夢の中で、僕は車に乗っていた。僕が運転席、竜崎が助手席。僕は前方をしっかりと見ているけど竜崎は僕をじっと見つめている。 僕はとても緊張している。これが失敗してしまったらどうしようか、と僕は云う。僕の頭は痛くて堪らないのだけど、竜崎はそれが副作用なんですと済まなそうにしながら僕の片手をハンドルから離させて握る。失敗する訳にはいきません。これは記憶や状況に関する説明を成り立たせるための演出ですから。 僕は手を握る竜崎に向かって憎憎しげに毒づく。こんな真似をして逃げ切れると思っているのか。 竜崎は今にも泣き出しそうなひたむきな視線でただ僕をみつめている。僕は竜崎を狂人と罵っているけれど彼を見ることが出来ずにいる。怖いのだ。失敗よりも、死よりも、彼の抱える強い感情が恐ろしい。 僕は強くハンドルを切る。酷い音、歪む視界、衝撃、そして暗闇。 竜崎はあれからしばらく傷ついたままだった。僕は本当は彼がとても繊細な心を持った人間だということを知っていたので、そういった彼の様子は僕をとても悩ませた。 僕はどうやったら竜崎をこの落とし穴のような悲しみから救い出すことが出来るのだろうかと考えて、ふと思いつくままに口を開いた。 「竜崎」 僕が呼ぶと、竜崎は何でもないような素振りで僕の方を見た。僕と竜崎はちょうどこれから就寝するところだったので、竜崎は既にベッドの中、そして僕はベッドの反対側の端に腰掛けたところだった。 「僕は竜崎が好きだよ」 竜崎の目が大きくなった。驚いた時の彼の仕草は大抵滑稽なのにどこか優しく見える。 「友達としても好きだけど、僕は竜崎にそれ以上の感情を持っていると思う」 云いながら僕は竜崎から視線を外してちょっと微笑んだ。目に掛かった髪を軽く払いながら気持ちを落ち着かせ、また竜崎を見ると、彼は夢の中で浮かべていたようなひたむきな表情をしていた。 僕は竜崎のその表情からは彼がどう思っているのか読み取ることが出来なかったが、少なくとも竜崎が僕のこういった発言に対して嫌悪も拒絶も感じていないらしいことは解る。だけど喜んでいるのかどうかは判断がつかなかった。 竜崎はかなり長い間沈黙していた。彼がやっとその鐘のように鳴り響く静けさを破って「私もです」と囁いた口調は、僕が聞いた事のないくらい静かなものだった。 僕は微笑んだままベッドに入り、竜崎の方に身体を寄せてくちづけた。何度か優しい口付けを繰り返しながら、僕はただ竜崎が喜んでくれればよかったのに、とだけ思っていた。それで僕は性急に竜崎に触れた。もっと竜崎に触れて欲しかった。 竜崎は困惑しながら僕を止めようとした。彼の云うには、これ以上続けたらもう引き返すことは出来ないのだそうだ。最初から引き返すつもりの無かった僕にその言葉は腹立たしいだけだった。僕は子供っぽい我が侭と傲慢さを振りかざしてこの先の行為をねだった。 本当にそうすることを望んでいるのですか。そう竜崎は訊いた。僕はうんと云って頷いたけれど、実際は僕はとても残酷な気持ちになっていた。竜崎が丁寧に自分の中に押し込めていく感情を引きずり出せそうな気がして僕は喜んだ。 あの夢のせいなのだ。僕はあんな酷い人間ではないはずだ、そう思うほどに僕は夢の中の僕をなぞらずには居られなかった。 竜崎は僕を抱いた。そして、僕は自分がそういった行為に慣れていることに打ちのめされた。 逃げ出しましょう、私はLを捨てます、キラを捨てます。私達はどこまでも逃げていつか全てのしがらみから逃げ切ります。そうしたら私達は誰でもない、ただの私とあなたになります。それはきっと幸せです、私のずっと望んできた永遠の幸せです。このままではいけません、私はキラを捕まえなくてはならない。諦めてしまえばいいという訳ではないのです、それは私の存在意義なのです。だから私は私自身から逃げ出さなければならないのです。お願いです、一緒に逃げて下さい。私は恐ろしい、もしもあなたがキラであったらと思うと幸福の絶頂に達すると共に恐怖します。あなたがキラだったら何て素敵なことなのでしょう。あなたほど素晴らしい人を私は他に知りません、そんなあなたがキラだとしたら私は喜んで殺されます。だけどあなたは優しい人です。私にとってあなたは誰よりも大切なのです。あなたが人を殺すところを見たくはない、そうやって少しずつ自分を殺していくところを見たくはありません。あなたがキラなら私はあなたを指差し悪魔めと罵って火炙りにしなければならないのです、私にそれをさせないで下さい。お願いします。お願いします。一緒に逃げ出しましょう。 そうだ、竜崎は逃げ出そうと云っていた。 あれはいつのことだっただろうか。解らない。 目を開けると竜崎は僕の手を握ったまま寝息を立てていた。僕は安心してまた目を閉じる。 僕を執拗に追いかけて来ていたあの夢は、徐々に僕に追いつきつつあった。まず夢の鮮明さが増した。音が微かに混じるようになった。それから僕は僕を呼び続ける人達が誰なのかを思い出した。 会話していた竜崎の言葉が途切れ、椅子ごとぐらりと丸まった背中が傾いだ。倒れる身体を抱き留めながら、僕は抑え切れない笑みに唇を歪ませた。結局お前は逃げ切れなかった。僕達は手に手を取って逃げ出しながらも、最初からお互いを裏切っていた。竜崎はどれだけ足掻こうともLでしかなく、だから僕もキラでなければならない。 二人で逃げようと決めたあの日、竜崎が提案し僕が頷き、竜崎が実行に移した。僕の腕を取って薬品を注射しながら、記憶を捨ててどこまでも逃げようと囁いた、あの暖かな吐息を忘れない。優しい思い出が尚更僕を駆り立てる。だってお前は約束したじゃないか、だが約束は結局破られた。それを僕は忘れない。 竜崎が僕の腕の中で驚愕と確信に目を見開く。そうだよ、僕がキラだ。 僕は期待した、竜崎が僕を糾弾することを。竜崎は僕を罵り、嘲笑して蔑むだろう。それがLだ。僕が最後までキラであるように、彼は最後までLであるのだから。竜崎が実際にそれを行動に移す必要はなかった、彼がそうしようと思いさえすればそれは僕に伝わるはずだった。 だが竜崎は僕を指差してキラと呼んだりはしなかった。 竜崎はLとしてではなく、僕の好きな人のまま死んでいった。 それに気付いた途端、僕は感情を引きちぎって投げ出した。 竜崎。 僕達は逃げ出すんじゃなかったのか。 はやく僕を連れて逃げてくれ、このままでは追いつかれてしまう。 竜崎。 お願いだから。 ……僕は嘘なんか吐かなかった。 次に意識が浮上した時、僕の目の前には父を始めとする捜査本部の面々が居た。 僕が目を開けたことに気付いた父が僕の前に駆け寄る。お前は夢を見ているんだ、記憶がごちゃごちゃになっている、ここが現実なのだから帰って来なければいけない。そう云う父に向かって頷いて見せれば、父は驚愕すると共に喜んで僕を抱き締めた。 「大丈夫だよ、父さん」 僕はそっと父の背を撫でた。 「僕ならもう大丈夫」 ずっと夢を見ていた。僕は竜崎が僕の記憶を一時的に混乱させるために用意した幾つかの非合法な薬品を調合するところを眺めていた。竜崎は僕と一緒に逃げたいのだと云った。僕は頷いた。それで僕達はお互いの運命に触れるために二人きりで逃げることにした。二人で車に乗って、軽い事故を装って。小さな部屋を用意しておいて。そこにずっと二人で居ればいい。 だけど僕はそのうち記憶を取り戻してしまった。それは不可抗力だったけれど、竜崎はそれ以上僕を連れて逃げてはくれなかった。彼は端から記憶を失ってなんかいなかったのに。彼は諦めてしまったのだろうか。疲れてしまったのだろうか。 それで僕と竜崎はそれぞれキラとLに戻る。キラとLはお互いの尻尾を掴み合って結局僕がLの息の根を止めた。簡単だ。言葉にしてしまうのはそう難しい事ではない。 それなのに竜崎はLとしてではなく恋人として死んだ。そうして僕は彼に徹底的に拒絶されたことに気が付いたのだ。Lのままでいてくれればよかったのだ、僕の好きだった人は僕と一緒にどこまでだって逃げてくれるはずだった、だけど彼は逃げ切れずに死んだ。 だから僕は夢を見ていた。記憶を混乱させた薬品の影響は長い事抜けなかった。それをいいことに竜崎が僕に与えた忘却の力に必死で縋りながら、僕は過去だけを繰り返し見つめていた。 僕はうまく喪失することが出来ただろうか。まだ失いきれていないような気がする。 あれから時々夢を見る。 僕は竜崎と一緒に記憶とすべての運命を投げ捨てて逃げる。逃げて、逃げて、逃げ出した先で、僕は竜崎を殺す。竜崎の咽喉にナイフを押し当てると竜崎が微笑む。それから僕はそのナイフを自分の咽喉にも触れさせて強く引く。 この手で殺せばよかったのだ。あの瞬間からすべてを中断してしまえば、きっと僕達は幸福だった。 夢の中で僕と竜崎は死を目の前にしてとても安らかだ。 僕は時々夢を見る。 夢を見る。 バビロンとは古代バビロニアの首都の名称で、華美で悪徳のはびこる都市などを指しますが、虜囚の地、流刑地という意味も持っています。藝術家の死、はボードレールの作品の中でも最もマラルメに近いと云われる詩から。 お互いを殺しあうことが運命づけられた二人は、その運命が支配する世界から抜け出すために自分達のアイデンティティを否定して逃げ出します。彼らのアイデンティティとはつまりLであること、キラであることです。彼らは余りにも自分達の抱える性質に自らの意思では運命に逆らうことが出来ないので、そのためには世界そのものを拒否しなければなりません。そんな彼らの逃げ出す先が流刑地です。彼らは進んで罪人になる事で自由を獲得しようとします。だけど罪人に幸せになる権利は与えられてはいないのです、結局のところ。 『フロン』のユウさんに、僭越ながらお誕生日のお祝いに捧げさせて戴きました。おめでとうございます!だいすきです。 戻る |