えりなさい

※ 日本では未公開のアメリカ映画『Garden State』パラレルです
※ 元ネタを知らなくても全く問題はありません
※ Lの兄として初期Lが出てきますが苦手な方にも差し障りの無い程度かと思われます

1.

 飛行機は乱気流の中を力なく泳いでいた。絶え間ない振動、不規則に明滅する照明。機内の不愉快に乾き切った空気に混ざって不安が煙のように立ち込めている。ぎい、と機体が軋みながら一層斜めに傾ぐ、そして気流の変化による一瞬の落下に伴う浮遊感。隣に座った老女が夫に縋って泣くのを無感動に聞きながら、私は何度かゆっくりと瞬きをする。また誰かが十字を切り神の名を呼んだ。
 がたがたと揺れる機体のお陰で少し背中が痛くなった。
 私がニュージャージーを訪れるのは幼少の頃以来だ。兄以外の唯一の身寄りが死んだ、その葬式に参列するという理由がなければきっと二度と来ることは無かっただろう。
 私が普段Lと云う探偵として仕事をこなしている部屋の白い壁を、私はよく見つめる。その行為に特に理由は無い。仕事があれば私は仕事をする、仕事がない時私は膝を抱えて座ったまま壁を眺める、そして時々甘いものを食べる。兄が電話を掛けてきた時、私は壁を見ていた。叔母が死んだ、葬儀に参加するように。それだけを伝えて電話は切れた。数秒間通信が途絶えたことを告げる信号音が鳴り、私は電話を切り替えて短い旅行の準備を始めた。私は金銭とある程度の権力には困っていないが、あまりそういったものを行使しようと思ったりはしない。その日のうちにヒースロー空港から発った飛行機は少し揺れた。
 ニュージャージーの中でも田舎にある親戚の家には少なくない人数が集まっていた。つややかな飴色の棺の前で何人かが泣き、儀礼的ないくつかの段取りが行われるのを見守りながら、私は人々の肩越しに黄色いトラクターとその傍らに立つ男を見つめていた。私も彼も、悲しむことに失敗してしまってあとは何もかもが終わるのを待っている。
 叔母の家で、黒を纏った人々は食事をしながら世間話や噂話に興じた。内容はどれも既に過ぎ去ったことばかりだった。何人かに話し掛けられ、私は適当に相槌を打った。私は兄が滞在中使用している書斎で彼と二、三言葉を交わしてからその家を出た。私は兄同様Lであり、そしてそれは誰にも知られる訳にはいかないのだけれど、その秘密は今のところ完璧に守られているので私はこの件についてこれ以上何もしなくても構わない。
 少し古い造りの家とそこに満ち満ちた過去の匂いを抜けると、私はあてもなく近くを歩き回った。空は晴れ、緩く吹き付ける風は熱くもなければ冷たくもない。色々な家の庭先に植えられた木々の葉が柔らかく光を弾いている。私は自分の部屋の白い壁を眺める代わりにそれらをしばらく眺め、それから自分が普段常用している薬を持ってきていないことを思い出した。確か私が服用するべき薬の大半は普通の病院で処方して貰うことが可能だったはずだ。こういった場合でも融通が利くように、私は幾つかの名前や経歴を用意しておいてある。
 私は屋内に引き返し、適当に周囲の人間に近くの病院の位置を確かめた。そう遠くはないが徒歩では時間の掛かる、中途半端な距離だった。だがこの付近では交通機関と云えば車なのだ。私が兄に車を借りるべきか考えていると、また別の人間がやってきてスクーターを貸してくれる旨を伝えに来た。自分の息子が昔乗っていたのだけれど、また使えるはずだと云って差し出された鍵を受け取り、私は隣家の庭先に置かれていたサイドカー付きの白いスクーターに乗って病院へと向かった。
 病院の待合室で、私はまた白い壁に囲まれた。受付は待合室の正面にあり、小太りの看護婦が書類に必要事項を記入するように、と云って差し出したクリップボードとペンを持って私は椅子に腰掛けた。何列にも並んだ椅子には私以外には一人の青年しか座っていなかった。私と幾つか席を隔てて横に座った彼は最初目を閉じて音楽を聴いていたが、私が書類を受け取ってから順番を待つためまた椅子に腰掛けると、穏やかな笑みを浮かべて私をじっと見た。私は手元の書類に目を落とした。
 ドアを開けて私の目の前を犬を連れた女性が通り過ぎ、私の後方の席につく。と、彼女の連れていた犬が私に近づいてきた。そのまま見守っていると、後ろ足で立ち上がった犬が私の脚に伸し掛かってきた。
『……どいて下さい』
 私が困惑して云うと、少し離れた辺りから笑い声が聞こえた。ヘッドフォンを外し、青年が笑いながら席を立って私の傍に座った。
『腹を蹴ってやればいい』
『腹を?……そういう訳にはいきません』
『大丈夫だよ、軽く蹴ればいい。僕もドーベルマンを三匹飼っているけど、腹を蹴りでもしないと云うことをきかないんだ』
 私は半信半疑のまま青年を見返した。青年はにこやかに微笑んで見せたが、何か珍しいものを見るような興味深げな視線を隠そうとはしていなかった。
 アーサー、と飼い主の女性が犬を呼ぶ声がして、犬はいかにも渋々といった様子で私から離れた。
『使い捨てられた気分です……』
 そう呟くと、青年がまた小さく声を立てて笑った。
『近くに住んでるの?見かけない顔だけど』
『私は竜崎です。此処へは少しの間滞在する予定です』
『りゅうざき?もしかして日本人?』
「どうでしょうね」
 最後の一言だけ日本語で返すと、青年は「ふうん」と軽く頷いてからまた音楽に没頭し始めた。私も目の前の壁を見る。しばらくお互いに無言で居ると、彼が再び声を掛けてきた。
「君は何をしにきたの?……ああ、答え難かったら構わないけど」
「薬を処方して貰うためです。酷い頭痛に悩まされているので」
 それは嘘ではなかった。ふうん、と青年はそれでも興味を失ってはいない顔で相槌を打ってから、ごく真剣な調子で続けた。
「僕は脳に腫瘍があって、それで来ているんだ」
「そうですか」
「そう。まだ良性か悪性かは解らない。悪性だったら僕はきっと助からないで死んでしまうと思う」
「嘘ですよね」
「冗談だよ」
 青年はちょっと楽しげに肩を竦めて見せる。
「それでは、あなたは何のために来たのですか」
「友達を待っているんだ」
「そうですか」
「ああ」
 そこで看護婦が私を呼んだ。
「では、私は失礼します。お会いできてよかったです」
「まだだろう?僕はライト」
 云って、青年はにこやかに手を差し出した。私も礼儀として挨拶と共に握り返す。
「ライトくん……ですか。私は竜崎です」
「うん、よろしく」
 私が診察室の方へ歩き出すと、先程の看護婦がライトの方を向いて『次はあなたですから、もう少しお待ちください』と云った。ライトは少し気まずそうに椅子に沈み込んでヘッドフォンを耳に当てた。




『Garden State』はお気に入りの映画です。ナタリー・ポートマンがとても可愛い。
大体のプロットと雰囲気は映画から借りていますが、ストーリーはうろ覚えのため実際の映画には大まかにしか沿っていません。その辺りはあまり気にせず、ただのL月ラブストーリーとして読んで戴けたら嬉しいです。


戻る