Ocean Breathes Salty

1. When the ocean met the sky

 僕は何かを恐れている。
 それが何かはよく解らない。
 僕は自分を観察しコントロールすることが苦手ではないので、訳の解らない感情に出くわした時も僕は大抵すぐに説明をつけ対処することが出来る。恐怖や焦りといった感情にしてもそうだ。完全にとは云わずとも、ある程度までならそういった感情の暴走を抑えつけることは僕にはそう難しいことではない。
 しかしどうにもこの感情だけは理解の域を超えているように感じられた。その恐怖に似た感情はどうやら僕自身の心の奥底にある濁った澱のようなものに向けられているのだが、そんな誰だって持っているような負の部分を恐れる理由はどうしても推測できないでいる。そしてそれは僕にとっては恐ろしいことだ。
 自分が把握出来ないということは自分が立っている基盤を正確に認識出来ないということで、つまり僕は今暗闇の中で崖を背にしているのに等しい。いつ真っ逆さまに堕ちるか解らない状況で、果たして僕は冷静に道を探れるか、僕には解らない。
「……」
 僕は部屋の隅の暗がりを見つめていた目を一旦閉じ、無言のまま寝返りをうった。手首の鎖が微かに鳴る。
 目を開けるとやはり暗い中に天井がある。引かれたカーテンの隙間から青白い月明かりが差し込んで、天井だけはぼんやりと明るい。だが、だからこそ光の当たらない暗がりは一層暗かった。
 僕は半身を起こしてから横のLを見やった。こちらに向けられた背中の見せる規則正しい上下はどうやら彼がまだ眠っていることを証明しているように思えたが、ベッドを抜け出そうにも手は手錠で繋がれている。
 手錠生活は慣れればそれほど不便ではなかったが、何しろプライバシーというものは欠片も無い。着替えや入浴は勿論、とにかく四六時中他人と一緒に居るという現在の状況は、独りでいることを好む僕にはどうも負担が少なくはなかった。少なくとも排泄の時すらドア一枚を隔てて誰かが傍に居るというのは僕にとって大変好ましくない状況だ。
 今だって、この手が鎖で繋がれてさえいなければ僕はすぐにでも独りきりになりたい。顔でも洗って少し夜空を眺めればきっと眠れるだろうに。眠れない夜はいつだって僕を憂鬱にさせる。
 僕はどうにもやりきれなくなって小さく溜め息を吐いた。
 と、唐突にLがもぞもぞと動いた。彼の眠りが酷く浅いのはよく知っていたので、僕は身じろぎもしなかった。
「夜神くん……」
 Lは僕と同じように半身を起こしこちらを向くと、眠れないのですかと訊いてきた。僕はそれでようやくLを見る。
「ああ、そうみたいだね……どうも目が冴えちゃって」
 云って苦笑すると、Lは何か考え込むようにしてしばし沈黙した。
「……夜神くんは、そろそろ独りきりになりたいと考えています」
 一言一言確かめるように発音して、Lはこちらをやや上目遣いで見る。まあね、と頷いてやると、Lもやはりとでも云いたげな様子で何度か頷いた。
「夜神くんはプライバシーを尊重する人です。監視カメラも手錠もあなたには多大な負担を与えています、……」
「解ってるんだったら偶には自由にしてくれよと云いたいところだけどね」
 僕はLの言葉を半ば遮るようにして肩を竦めて見せた。結局のところLは目的の為には手段を選ばない人間なので、彼が僕をこの生活から一瞬でも開放してくれるつもりなどはさらさらないのだ。実の無い会話をだらだらと続けていられるような余裕は残念ながら僕には無い。
「そうですか」
 Lは恐らく僕の一連の考えを推測したのだろう、小さく首を傾げて唇に指を当てた。
「では気分転換などどうですか」
「気分転換?何を云ってるんだ竜崎、もう夜中だよ。寝直した方がいいんじゃないか」
「しかし夜神くんは起きています」
「それはそうだけど、そのうち眠くなるさ」
 Lはまたしばし黙り込む。
 僕は僕で、そう苛々もせずに彼が何か言葉を発するのを非常に怠惰な気分で待っていた。
 悲しいかな、彼の奇矯な所作や態度にも僕はすっかり慣れてしまった。以前Lの言動にいちいち緊張していた記憶がおぼろげにあるが、今では日常の一環となりつつある。それでも彼の奇抜な行動や言動に驚かされることは未だに少なくはなく、僕は時折何か珍しい動物を眺めているような気分にもなったりする。このことをLは知っているのだろうか。それはやや気になるところでもある。
「マスターベーションなどどうでしょうか」
「……は?」
 僕は幾らなんでも耳を疑った。Lは今何て云った?まさか、聞き違いだろう?
 だが彼はいっそすがすがしいまでに僕のささやかな期待を裏切った。余りにも常識はずれなので逆に想像がついた程だ。
「だからマスターベーションです。手錠で繋がれて以来したところを見たことがありませんし、気分転換にもなります」
 最早言葉も出ない。呆然としていると、Lがとどめの一言を放った。
「お手伝いしてあげましょうか?私結構上手いですよ?」
 とりあえず僕は枕を掴んで力の限りLを殴りつけた。




『君の身体はもう無いかも知れない、だから僕は君を運び込む。僕の頭に、僕の心に、僕の魂に』
『僕たちはもしかしたら幸運を得るだろう、そうしたら僕たちはまた生きるんだ』

SWEET ESCAPEのユキさまに捧げます。


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