精神の純
sample




――あらゆる性的異常のうちで、純潔こそいちばん奇異である。アナトール・フランス


 キースの夜はいつでも先約で埋まっていた。思い返してみれば、確かにそうだった。


 イワン・カレリンがキース・グッドマンと清く正しいお付き合いをするようになってから、既に数ヶ月が経過していた。最初は自分でも忘れてしまいたいと思うくらいの拙い告白で始まった関係は、イワンが考えていたよりもあっさりとキースに受け入れられた。彼は天然ではあっても常識的な人間だったから、同性同士の関係など考えられもしないのではないかと危惧していたが、現実にはキースはイワンの告白に恥ずかしそうに頷いてくれた。
 実は、わたしも君のことがとても気になっていたんだ。気になっていた、とても。そう返されて、イワンはわが耳を疑った。動揺で語尾が芝居がかってしまったが、それくらい信じられないような展開だった。まさか、キースが、あのキースが、少しでも自分を気にかけてくれていただなんて! 感激したイワンがキースの手を握り締めると、彼の顔は頬どころか耳まで真っ赤になった。相手は自分よりも体格のいい男だというのに、イワンは彼のあまりの可愛らしい反応に釣られて真っ赤になったものだった。
 そうしてお付き合いを開始した二人だったが、それからは奇妙なほどに進展が見られなかった。皆が思うほどおくてでもないイワンには人並み程度の欲求がある。彼はごくごく一般的なステップを踏んでキースとの関係を深めたいと思っていた。だが、どうやらキースはよほど恋愛に対して不慣れなようだった。彼は手を繋ぐのにもいちいち赤面して焦ってしまう上に、場合によってはイワンの手を振り払ってしまうほどだった。最初に振り解かれたときには随分とショックを受けたものだが、キースが涙目になって謝罪してくれたのであっさり忘れてしまった。それから何度も失敗を繰り返し、ようやく手を握るのにも慣れてきてはくれている。
 そもそもキースは経験が薄そうに見えるし、一応は男同士でもある。心の準備なども異性間とのものよりはハードルが高いだろうと考えて、イワンは出来る限りキースの歩調に合わせることに決めていた。その結果の、数ヶ月である。
 手を繋ぐことが出来るようになるまでも大変だったが、それからキスをするまでの道のりも長かった。振り返ってみれば一瞬だったが、どれだけキースとキスがしたいと思い続けてきただろう。文字通り夢にまで見てしまった。初めてキースと唇を重ねることが出来たときには、だから、あまりの感動に二人とも言葉を失い、赤面したまま俯いてしまったのが記憶に新しい。
 イワンは機械的にトレーニングを続けながら、ぼんやりとその日のことを回顧した。


「あ、キースさん、あれなんかどうですか?」
 ショウウィンドウを眺めながら歩いていたイワンは、彼に並んで歩くキースを顧みてそう言った。
「んん、どれだい?」
 イワンの指さす方向を見遣って、キースが小首を傾げる。雑貨店のウィンドウには様々なものが陳列されていて、どれを指しているのかがわからない。
「これですよ、ほら。このバスケットに入れたらシートやランチも持ち歩きやすいかなって」
 店に歩み寄り、二人はガラス越しにほどよい大きさのバスケットを眺めた。平日のショッピングモールは週末の混雑ぶりを忘れさせるほど広く、陽光が差し込んで明るい。ガラスに光が反射するので、イワンは心持ち顔を傾けた。自然とキースに顔が近づき、ふとそちらを見る。
 ぴくりとキースの肩が揺れて、僅かに足を引くのがわかった。頬がかすかに赤い。
「キースさん?」
 怪訝そうに問いかけると、キースは照れたように笑いながら手を振った。
「いやっ何でもないんだ、……それ、そのバスケットでいいと思う。思うよとても!」
 その日、二人は一緒に公園に出掛ける約束をしていた。キースはジョンも連れて来たいと言っていたのだが、一回だけでいいですからと説き伏せて彼には留守番をして貰っている。この埋め合わせにジョンを連れて改めて公園に遊びに来ると、そういう口実で次の約束もぬかりなく取りつけてある。
 公園に行く準備など全く出来ていなかったが、イワンはとりあえずキースを連れてショッピングモールにやってきていた。必要なものはすべてここで調達すればいい。そうして二人はどこかぎこちなく会話をしながらバスケット、シート、飲み物やランチを購入しては次々と荷物を増やしていった。
 途中、こんなに買ってしまってどうするのかと問い掛けられて、イワンはにっこり微笑んだ。せっかく購入したんですから、これから何回でも使いましょう。彼の言葉に頷いたキースの笑顔があたかも湖面に反射する陽光のように思えて、イワンは知らず目を細めていた。
 それから二人は並んで歩きながら公園へと向かった。しばらく散歩をして、ほどよいところでシートを広げてランチをとる。事前に調べておいた店で買ったサンドイッチやベーグルサンドは予想以上に美味しくて、自然と頬が緩んだ。完璧だ。
 ランチを済ませてから、再び散歩しだす頃、イワンはそっと手を伸ばしてキースの手を握った。
「!」
 びくんと肩を跳ねあげるキースがいとおしくてたまらない。手だけではなく二の腕も肩も力が入りすぎて強張っているのがわかるのに、彼の手は固まったように開いたままだ。その指先を一本一本自分の指に絡めるようにして、イワンはそっとキースの手を握り込んだ。
 掌越しにあたたかな体温が伝わってくる。
「……ねえ、キースさん」
「なっ、何だい」
 イワンはキースの緊張を宥めるように、そっと繋いだ手を振りながら微笑んだ。キースが真正面を見つめたまま硬直しているのは見てわかっているが、それでも気持ちが伝わればいいと、優しく語りかける。手を繋ぐのはこれが初めてではなかったが、キースは毎回ひどく緊張してしまうようだったから。
「僕、キースさんのことが、好きですよ」
「う……」
 首まで真っ赤にしながらキースが俯く。ふらふらと地面の辺りを彷徨っていた視線が徐々に上がってくるのを、イワンは焦らずに待っていた。やがて、キースはようやくイワンの目を見てふにゃりと笑った。
「わたしも、イワンくんが好きだよ……」
 言葉と共にゆっくりと足を止める。つられて立ち止ったキースとのわずかな身長差をもどかしく思いながら、イワンは繋いだ手を引いた。少しだけ前のめりになったキースの頬に空いた手を添え、優しくくちづけた。
「キースさん……」
 触れるだけのくちづけは柔らかく、ほんの数秒が永遠のようだった。
「あ……イワンくん……」
 唇を離してみると、予想外にリラックスした表情のキースが、少し困ったようなあの表情でイワンをじっと見つめていた。物言いたげな彼の顔に、イワンは弱い。思わず再び唇を寄せると、今度も拒まれることなく受け入れられた。
「好きです……」
 改めて宣言しながら、キースの額に自らの額を押しあてるようにして囁く。至近距離で見つめる彼の頬は紅潮しており、青い瞳が潤んで美しかった。
 手を繋いだ時よりもキースの緊張が薄れていたように思えたのは、だから、少しはイワンに慣れてくれたのだろうと、そう彼は思っていた。
 そう、思い込んでいた。


「キースさん」
「ん? 何だい?」
 トレーニングの終わり、ロッカールームで汗を拭いながら、イワンは斜め上のキースを見遣った。キースはトレーニングウェアを脱いで上半身裸になっており、鍛えられた筋肉のラインに伝う汗のしずくまでを余すところなくイワンの視線の先に晒している。手を繋ぐのも難しい、キスはそれ以上に恥ずかしい。それだと言うのに裸体を見られることに抵抗がないのは、やはり同性だという意識があるからだろう。逆にイワンの方がキースの肉体に胸を高鳴らせ、まさか顔には出ていないだろうかと内心で焦りを感じていた。
「その……、今夜、キースさんの家に行っても、いいですか」
 あと一押し。あと、ほんの一押しなのだ。
 勿論イワンとキースとはれっきとした恋人であるし、お互いにそれを疑ったりもしていない。ただ、恋人同士であるのだから、特別な触れ合いを望んでしまっても仕方ないはずだ。これまでキースに合わせて忍耐強く待ち続けてきたイワンだったが、そろそろもう少し進展があってもいいのではないかと思ってもいる。
 つとめてさり気なく言ったイワンの言葉は、だが、あっさりと否定されることになった。
「すまないが、今夜は都合が悪いんだ」
「そ、そうですか……すみません、急に訊いたりして」
「いや、こちらこそすまない」
 困ったように眉を下げるキースに笑っては見せたものの、断られることを予測していなかったイワンは衝撃を受けていた。
 これまでの流れからして、そろそろ彼はイエスと言ってもおかしくはなかったはずだ。もしかしたら前々から予定が入っていたのかも知れないとは思ったが、恋人同士になってからはある程度お互いのスケジュールなども把握している。イワンの知らないどんな予定があると言うのだろう。
 断った方と断られた方で、妙な沈黙がロッカールームに落ちる。
 やや気まずい思いで着替えを急ぐイワンの中では様々な憶測が駆け巡っていたが、キースが立ち去ろうとするイワンの背中に一言、「また今度来てくれないだろうか」と声をかけたことで全ては忘れ去られた。
 きっとたまたま予定が入っていただけに違いない。そうだ、きっとそうだ。どうして僕はキースさんを疑ったりなんかしたんだろう……。
 最後にちらりと肩越しにイワンを見遣ったキースの頬が赤かった。


 ところが、それからいつまで経ってもイワンはキースの家に呼ばれることはなかった。昼間ならキースがイワンの家に来ることも、イワンがキースの家に出掛けていくことも度々あるのだが、何故か夜になるとキースは予定があると言い出す。
 以前から約束しているから。ちょっと急に予定が入ってしまって。どうしても都合がつかなくなってしまったんだ。
 そう言っては申し訳なさそうにするキースの姿を、果たして何度見ただろうか。いくらイワンがキースに合わせようと思っていても限度というものがあった。未だにイワンとキースは唇を軽く重ねるだけの仲で、それから一向に進んでいく気配もない。キースの様子から彼が満足しているのはよくよく解っていたが、それではイワンとしては収まりがつかないのだ。どうしたら彼にもこの気持ちを解って貰えるだろうか。
 もう何度目になるのか、数え切れないほど交わしたバードキスをまたキースと交わしたイワンは、ある日とうとう耐えられなくなってキースの肩を掴んだ。
「キースさん、」
 わずかに頬を紅潮させたままのキースが、イワンの意図を掴みきれずに青い目を瞬かせる。どこか妙な罪悪感を覚えつつ、イワンは再度キースの肩を掴んだ手に力を込めると、初めてキースに深くくちづけた。今まで一度も開かれることのなかったキースの唇を開かせ、舌を絡める。キースの反応が怖くて無理矢理目を閉じたまま散々好きなだけキスをしたイワンは、唇を離したときに果たして彼がどんな表情をしているのか不安になりつつそっと顔を離した。
「……」
「……」
 キースは先ほどと変わらない不思議そうな表情を浮かべていた。それがどういう意味なのかわからず、イワンも謝ったらいいのか開き直ればいいのか判断ができずにいる。イワンにとっては永遠とも思えるような沈黙ののちに、キースはふと自分の手をあげると、指先で唇をなぞって首を傾げた。
「イワン君」
「はっ、はいっ!」
 思わず飛び上がる。どうしよう。どうしよう。ちょっとやりすぎてしまっただろうか。謝ればいいのか、土下座もつけたほうがいいのか、しかし二度としないとは約束できないし、ああもうどうしたら。背筋を伸ばして硬直したイワンに、しかしキースはちょっと困ったような表情で言った。
「わたしはいつものキスの方が好きだな……」


   * * *


「なに……を、してるんですか……」
 指先がぶるぶると震える。イワンは呼吸を忘れたように唇を開閉させたが、それ以上の言葉がどうしても出てこなかった。
 キースはちょっといいかな、と背後の男に断りを入れて接合を解くと、ややおぼつかない足取りで立ち上がった。そのまま、ゆっくりとイワンのもとへ歩み寄る。床にへたりこんだ状態のイワンに合わせて、自らも床に膝をついた。彼の足の間からなにか体液が滴り、太股をゆっくりと流れ落ちていく。それが精液とローションの混ざり合ったものであることは、訊くまでもなかった。
 キースの背後で、男たちが興ざめでもしたかのように次々にベッドから下り、服を身につけていく。早速立ち去ろうとする男たちの一人が、忌々しそうに部屋の隅のゴミ箱を蹴飛ばした。ガタン、と音を立ててフローリングの床に転がったゴミ箱から、液体の詰まったコンドームが零れ出るのを見て吐き気が込み上げた。
 またよろしくな。掛けられた言葉に頷く姿を見て、イワンは何も言えずにいる。背後でドアの閉じられる音を聞きながら、イワンは目の前の恋人を見つめた。
「キース……さん……」
 恋人が不貞を働いた場面を目の前にしたのなら、普通は怒って当然なのだろう。だが、相手はキースだ。恋愛に不慣れな、おくてな彼が、複数の男たちをベッドに引きずり込むような真似をするという事実そのものがあまりにも信じ難い。イワンはただ信じられないものを見る目でキースを凝視した。
 いつもの困ったような表情で、キースが破顔した。恥ずかしそうに、照れくさそうに。
「イワンくん、これは違うよ」
「……何が違うんですか。僕たち、恋人同士じゃなかったんですか」
 典型的な言い訳を並べるつもりなのだろうか。低俗な弁解とキースとのギャップが酷すぎて、ようやくじわじわと怒りにも似た衝動が腹に渦巻き始める。
「何を言っているんだい……?」
 言われたキースは、何か不思議な言葉を聞いたように首を傾げた。あまりにも自然に。それから、面白い冗談を言われた時そのままの仕草でイワンに微笑みかけた。
「これは恋人とする行為じゃないんだよ、イワンくん。君とはしてるじゃないか、手を繋いだりキスをしたり」
 ね? 君はわたしの恋人じゃないか。優しく笑いかけるキースの頬にまで飛び散っていた精液が、その動作のために重力にしたがってとろりと伝い落ちる。
 彼は精液にまみれた状態のまま、イワンの頬を両手で覆い、そっとくちづけた。性的な興奮とは別の次元で潤んだ瞳が彼をじっと見つめる。
「最初は痛かったし辛かった。もう慣れたけど、やっぱり自分がコントロールできなくなるのは怖い。怖いんだよ。わたしは変な声を出してしまうし、お腹の中に出されるとすごく変な気持ちになって、何をしているのかもわからなくなるんだ」
 真摯な表情でイワンを見つめるキースの表情はどこまでも純粋で、だがその話の内容だけがおかしかった。真っ青になったイワンが唇を震わせる。
「それは……キースさん、それは……」
「これはセックスじゃないって教えて貰ったんだ。セックスは男性と女性が子供をつくるためにすることだろうって。だから、男性同士ではセックスはしないんだ。恋人同士でも、男性同士だったらセックスはしない。これは遊びのひとつだって」
 
「君はわたしにこんなことするわけがない。そうだろう、イワンくん……」
 だって君はわたしの恋人なんだから。

 イワンは絶望のあまり微笑みを浮かべてキースをそっと抱き締めた。不思議と涙はこぼれなかった。

(本編に続く)

(04.22.12発行)


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