河原の石を
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表紙寄稿: ハチロさん


序章

――もう遅いなどと言わないでください。愛という尊い感情は永遠に失われたなどと言わないでください。オースティン

(扉が開き、男性が入室する。平均よりはやや小柄で、猫背。人種はスラヴ系)
 こんにちは、イワン・カレリンさん。今日はいかがですか? そうですか、相変わらずなんですね。
(しばし雑談)
 それで、そろそろ話してくれる気持ちになりましたか? 今日はほら、とてもいい天気ですし、こんな陽気の中だったら、きっと悪夢について語っても大丈夫だと思いませんか。
(沈黙。やがて男性がゆっくり語り始める)
 ……。ええ。好きなひとの手足を。その夢ばかり見るんですね。毎晩?
(男性が頷く)
 あなたはその夢を見てどんな気持ちになるんでしょうか。幸福。なるほど。ああ、いや、大丈夫、大丈夫ですよ。全て夢のなかの出来事ですしね。それはともかく、そんなに頻繁に四肢切断の夢ばかり見るんですね。そしてあなたはそれが幸せなのだとおっしゃる。四肢を切断することがどうしてそんなに好きなんですか? そうですか、無力なところがいいんですね。物理的に拘束するのではいけないんでしょうか。いえ、純粋な興味ですよ。椅子かなにかに縛り付けるのでは違うのですか? ああ、精神的に。つまり、物理的に無力にさせることで、その心をも折ってしまいたいということなんですね。では、少し視点を変えましょう。あなたは相手が苦痛を味わっているところを見たいのでしょうか? 残虐趣味ではないんですね。そうでした、スプラッタ映画やスナッフビデオもお好きではないとおっしゃっていましたね。では弱いものが肉体的な苦痛を味わわされているのはお好きではないと。性的にも興奮はしないんですね。それでは、あなたは夢のなかで好きなひとの腕や脚を切断するとき、いったいどういう気持ちになるんですか。幸福とおっしゃいましたが、具体的には? なぜあなたは幸福な気持ちになれるのでしょうか。
(再び、沈黙)
 ……。ああ、征服欲と支配欲が満たされて安らぐということですね。そうしたら、やっぱり縛るのではいけないのですか? なるほど。自分の側の心の不安を全くゼロにしたい、それは恐らく恐怖症なのでしょうね。肉体以上に意志能力そのものを去勢したい、モノにして手元に置いて愛玩したいという気持ちの表れなのではないかと思います。そうなるともはや束縛ではない、モノとして所有したいということではないでしょうか。……ところでカレリンさん、その相手は人間ですか?
(男性が顔を上げる。驚きの表情)
 あなたが夜毎夢のなかで四肢を切断する、その相手は人間なんですか? あなたは相手を、人間だと思っていますか?
(沈黙。男性が席を立つ)
 ……さようなら、カレリンさん。よかったら、また来てください。
(ドアが閉じられる。医師は溜め息を吐く。カルテに何行か記入し、閉じる。立ち上がり、窓の外を眺める)



第一章

――愛の病理学的範囲というものは通常の経験と隣りあうのみならず重なりあってもいるのだが、人生においてもっとも尊重される経験のひとつである愛が精神病と区別がつかないという事実は、時としてわれわれ人間には承認しがたい。マキューアン

 キース・グッドマンは幸せの絶頂にいた。
 彼はキングオブヒーローの座を後輩でもあるバーナビー・ブルックスJrに明け渡してから、二度とその座に返り咲くことはなかった。それまでの考え方から原点に回帰して、理想のヒーローたろうとする彼の姿勢は高く評価されたが、それがすなわちエンターテインメントに結びつくわけではなかった。虎徹とバーナビーが復帰して間もない今、キングオブヒーローは、いや、クイーンは、若く美しいブルーローズがその冠を頂いている。二位の座に落ち着くことになったスカイハイを、しかしポセイドンラインの重鎮たちはもはや責めたりはしなかった。彼の涙ぐましいまでの努力はそういう意味では十分すぎるほど報われていた。
 ヒーローとしてスカイハイは幸せだった。ひいてはキースもまた、幸せであった。彼は以前よりも少しだけ自分のことを考えるようになった。これまでの彼は、とにかくヒーローとしての役割をこなし、彼の抱く理想を体現することにだけその努力や時間を注ぎこんでいた。ふと、一息ついたとき、初めて彼は周囲を見回すことができるようになっていた。
そろそろいいひとでも見つけたら。彼がそう言われるようになったのはいつからだっただろうか。ポセイドンラインの職員に、ヒーローとしての同僚に、様々な人たちに同じようなことを言われて初めて、彼は自分自身に恋をするだけの余裕が生まれていたことを悟った。
 キースはこれまでに何度か恋をしてきていたし、恋愛に関しては不得手であるものの、それ自体への躊躇いはなかった。ただ、その恋の相手は常に異性であった。だから彼自身、いつも隣でトレーニングをしている同僚に、それもよりによって同性の彼に対して恋心を抱くようになったというのは予想もつかないことだった。
 イワンを恋しく思うようになったのには、ほんの些細なきっかけがあった。それは何でもない、平和な昼下がりのことだった。トレーニングの合間の休憩で、キースは何とはなしにぼんやりとディスプレイを眺めていた。しばらく前のジェイク・マルチネスの事件では切迫した心境で見据えていたそれは、ここのところ心温まるようなニュースや映像を流すことが多くなった。シュテルンビルト全体の犯罪率がやや下降しつつあるのがその最大の要因なのだと思いながら、ディスプレイに映し出される風景を眺める。折しもその時間帯に放映されていた番組はシュテルンビルトからほど近い地域を映し出していた。ひろがる草原に咲き乱れる花を見て、キースは小さく「あ」と声をこぼした。
「どうしたんですか?」
「いや、どこかで見たことのある光景だと思ってね」
 言いながら横を見る。そこにはキースと同じく休憩中のイワンが腰掛けている。
「行ったことがあるんですか?」
「わたしはないよ。どこで見たのだったか……」
 腕を組んで首を傾げる。テレビで見るのはこれが初めてのはずだった。一体どこでこの光景を見たのだろう。ひとしきり考え込むキースをイワンが同じく小首を傾げて見守っている。画面を見て、イワンを見て、もう一度画面を見てからキースはようやく思い至って笑顔になった。
「思い出したよ! 先日受け取った手紙にここの写真が同封されていたんだった」
「ファンレターですね」
「そうだね、確かあの子は半年前の立てこもり事件に巻き込まれたと言っていた」
 ガススタンドの売店に逃亡犯が駆け込んだ事件があったのだった。その時のアルバイトの少女から、感謝の手紙が届いていた。いっときはショックのために大学を休学していたが、実家にしばらく戻ることになって、今は元気に暮らしているという内容の手紙がスカイハイ宛に届いた。ほんのり薄いレモン色の封筒には、あの風景を背中にして微笑む少女の写真が同封されていたのだった。
 ああして写真を送ってくるということは、本当に元気になったのだろう。事件に巻き込まれた人間というのは、皆が思うよりずっと深刻にその事件をひきずってしまうものだ。若い彼女がいつまでも不安を抱えたまま生活しているわけではないと知って、キースは心底ほっとした覚えがある。
「ああ、あの事件ですね。……誰も傷つかなくて、よかったです」
 回想に浸っていたキースは、そう声をかけられて改めてイワンを見た。彼は滅多に見せないような柔らかい笑顔をキースに向けていた。
「よかった、そして、本当によかった」
 何だかイワンには考えていたことが全て伝わっていたように思える。少し気恥ずかしいような思いでキースは頷いた。急に自分が幼い子供にでもなったような気持ちがしたので。
「……」
 そのままどこか気まずく黙りこくっていると、ふとイワンがキースの俯いた顔を覗き込んできた。
「スカイハイさん、もしよかったら、いってみませんか」
「え?」
「ここ、この場所に。私服で行きましょう、騒がせたらいけないので。彼女が元気に過ごしているか、チラッとでも見掛けられたらいいですし、だめでも少なくとも気晴らしにはなりますよ」
 キースは驚いてじっとイワンを凝視した。元気にしていたらいいと、確かに気になってはいたが、まさかこうしてイワンから提案を受けるとは予想だにしていなかった。イワンの発言はキースにじわじわと浸透していったが、逆に彼はどんどん不安そうな表情になっていく。
「あ……すみません、お節介すぎましたね」
 暗い顔になるイワンにキースは慌てて両手を振った。
「い、いやっ、そうじゃないんだ、とてもいい考えだと思うよ! いい考えだ、とても! ただその、わたしにはちょっと思いつかなかったからびっくりしていたんだ」
 しきりに弁解するキースを見て、イワンが小さく笑いを零す。
「じゃあ決まりですね。次の休みにでも行きましょう」
「うん、そうしよう……。そうだね、あそこに行こう」
 イワンの声を聞きながら再び見上げたディスプレイでは、その地域の名産やちょっとした観光スポットを紹介している。あの少女が暮らす街を見てみたいと、改めてそう思った。
 キースはそうして、イワンと連れ立ってその地の草原を踏んだ。何でもないただの小さな街。シュテルンビルトの都心からほんの数時間離れただけで、畑や草原が広がっている。それでも、それを再発見すること自体が新鮮な感動を呼んだ。キースはこの日、本来なら休みでも何でもなかったのだが、イワンの休みに何とか合わせてみようと考えて休暇を申請していた。予想外にあっさりと申請が通されて、そうして彼は二人でここにいる。
 目当ての少女は、運のいいことにさしたる苦労もなく見つかった。彼女は手紙で書いていたとおり幸せそうにしていた。家族と思われる人々と笑顔で歩いている姿を見て、自分が心底安堵できていることにキースは気付いた。彼は守れたのだ。彼女の生活を、彼女を愛する人々を。胸がいっぱいになって言葉もなく立ち尽くすキースを、イワンは決して急かしたりはしなかった。
 これまでキースは、失われる瞬間に出会うことは多かったが、彼が守ることのできた人々を見る機会には恵まれてこなかった。ヒーローとは危機の時にだけその存在を求められるものである。時には救けが間に合わず、腕の中で冷えていく体温を感じることも少なくはなかった。その度にキースは深い悔恨の念に囚われ、幾つもの眠れない夜を数えた。それでも諦めたり立ち止まったりするという選択肢はキースには、スカイハイにはなかった。お気楽なエンターテインメントのためのショウアップヒーローと呼ばれようと、彼は自身の手が及ぶ限りの人々に安心を与えたいと願い続けてきた。
 帰りのモノレールに乗って、キースはこっそりと隣に座るイワンを眺める。これ以上ないくらいの感謝の気持ちを、キースはどうやって表したらいいのかわからないでいた。以前彼が恋した女性は、キースにヒーローとしての自分を再び与えてくれた。隣に座って車窓から外の風景を眺める青年は、ヒーローとしてはライバルでもあるのに、人々の救けになる喜びを改めて齎してくれた。彼があの日提案してくれなければ、こんな喜びを味わうことなどなかっただろう。
 ああ、わたしは与えられてばかりだ。
 人気の少ない車内は静かで、レールの間隔に合わせてゴトンゴトンと規則的な音だけが響いている。いつのまにか暮れ始めていた夕陽がふとイワンの色素の薄い金髪にかかり、毛先でとろりと滴るように輝いた。ふと、イワンがキースの視線に気付いて小さく振り返った。
「今日は、いい日でしたね」
「ぁ……」
 やわらかな唇の動き。わずかに細められた瞳。声に優しさが滲んでいる。イワンはキースの感謝の気持ちを十分に知っていながら、あえてそれには触れずに微笑みかけてきていた。そんな彼を前にして、キースは何故か言葉を失った。毎日のように顔を合わせてきていたはずのイワンを、この時初めて見るような気持ちがしていた。彼は誰だろう。いったい、誰なんだろう。イワン・カレリン、彼はこんな顔をした人間だっただろうか。
 橙色に蕩ける夕陽がイワンの横顔を照らし出す。その頬で踊る光線が、こんなにも美しかったなんて。声もなく頷きながら、キースはどうしようもなく恋に落ちてしまっていることをようやく自覚した。

(本編に続く)

(02.12.12発行)


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