なるファンより


「今日はお急ぎじゃないんですか」
 声を掛けられて、スカイハイは緩慢な仕草で振り返った。いつもスーツのメンテナンスをしてくれているメディックのひとりが、こちらを見て首を傾げている。スカイハイはマスクを被ったまま時計を見上げ、時間を確認した。既に随分遅い。
 いつもの彼なら家で待っている家族のために、一旦は自宅に戻るのが習慣だった。愛犬の世話や食事を済ませてからパトロールに向かう日課は彼の生活に染み付いており、そうそう失念できるものとは思えなかった。だが、今夜ばかりは違っていたようだ。
「……ああ、そうだね」
 メディックに視線を移すと、彼は既にコートを着込んでいる。帰宅するところなのだ、そう考えてから、彼はようやく自分がかなり長い間ここでぼんやりしていたことに気付いた。眺めていたはずの窓の外はいつの間にか真っ暗になっている。
「それじゃお先に失礼します。スカイハイさんも、早めにお帰りください」
 会釈に手を挙げて返し、彼はしばらく男が立ち去ったドアを眺めていた。そうだ、帰らなければ……。のろのろと腰をあげる。気分はだるく、身体がひどく重かった。今日だけではない、ここしばらくはずっとそうだ。だけど、今日は特にひどかった。
 ため息がひとつこぼれる。スカイハイはマスクをつけたまま、スーツを脱ぐために手をかけた。
 手袋を外すとき、指先の切り傷が引き攣れて痛んだ。
 やがていつもの通勤ルートを通り、自宅に辿り着いたキースは、ドアの前でしばらくぼうっと立ち尽くしていた。
 見慣れたドアのノブに手をかける。それを開くのに、躊躇いが滲むのは何故だろうか。思い切って開いた先、真っ暗な玄関に上がって、キースは黙ったまま辺りを見回した。
 今夜、彼の家族はここにはいない。健診のために動物病院に一晩預けてある。普段そこに居るはずの家族を失って、彼の部屋には静寂が満ちていた。整理整頓の行き届いた部屋だからこそ、なおさら空虚に見える。彼はゆっくりとリビングルームの中央まで歩を進めると、居もしない気配を探して耳をそばだてた。
 きん、と耳鳴りがする。先ほどからずっと鳴っていたのか、あるいはたった今始まったものなのかはわからない。不意に息苦しさを感じて、キースはその場で棒立ちになったまま、喉元を押さえた。
 くるしい。とても、くるしい。
 開かれていたカーテンを引くと、部屋は暗闇に包まれた。顔を歪め、ゆっくりと踵を返す。フローリングを進む歩調が徐々に速くなっていく。
 窓の外に、何かおそろしいものが居るように思えてならなかった。それは例えば人々の失望であり、あるいは揶揄であり、一方ではキース自身が見失った美徳を見せつけようとしているのだった。
 キースは泣き出しそうな顔で寝室に駆け込んだ。カーテンを引き、ドアを閉め、ベッドに潜り込む。
 両目に涙をため、溺れそうに喘いだキースは、シーツを頭から被ってようやく少しだけ落ち着いた。心臓がばくばくと鳴り、指先が異常に冷えている。
「……っ」
 シーツの下で息を潜める。呼吸をできる限り絞り、気配を殺しているうちに、ようやくキースは周囲の静けさを再び見いだした。
 ぽろり、右目から涙が落ちる。それは彼の頬を掠め、音を立ててシーツに着地した。寒気で全身がぶるぶる震える。
「……今夜、だけ、だから」
 変色した唇が乾いた声をこぼした。その表面はひび割れ、血の気をなくしている。
「今夜だけ、……」
 言い訳を吸い込ませようと、シーツを引き寄せる。指先がぴりっと痛んで、キースは大袈裟に背中を震わせた。
 今夜だけは、忘れたい。家族すら居ないこの空間でなら、やっと取り繕わないで済む。あらゆるものに怯え、縮こまる。キースは自分自身を抱きしめて胎児の形に蹲った。
 忘れたい。手紙に仕込まれていた剃刀も、破壊されたフィギュアも、細切れのヒーローカードも、忘れたい。キースはそんな利己的な願いを思った。
「うぅ……っ」
 ……そんなこと、できるはずなどないのに。
 嗚咽が漏れ、キースは顔をくしゃくしゃに歪めて泣いた。悲しかった。どれだけ失望されているのか、失望させてしまったのか、思い知らされることがつらかった。しゃくり上げ、両手で頭を庇うように抱える。
 打ちのめされ、立ち上がれなくなることこそが、こわかった。
「明日……明日からは、また、がんばるから……」
 呟いた声は、彼が弁明したかった相手には届かなかった。


(10.21.12)


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