名前すららない


 昼間はカフェ、夜はバー。こぢんまりとしたスペースに収まる俺の小さな店に、時折顔を出す奴がいる。
 金髪にフライトジャケット、やたら爽やかな笑顔が似合うあいつの名前は知らない。わかっているのはあいつがバイらしいって事くらいか。しかもあいつは自発的にひっかけてんじゃなく、ひっかけられる側だ。
 何度目かの「テイクアウト」の後に呆れて話題を振ったら、「どうも気づいたらそんなことになってしまっていて……」と途方に暮れていた。お人好しすぎた結果があの無節操っぷりだ。
 そんな訳で、あいつは男からも女からもひっぱりだこだった。うちの店は客層もそこそこいいから、まあ多少は構わない。よその店でも同じようなことになってないかだけは心配したけどな。あいつは俺の店に独りで来ては、時々誰かと連れだって立ち去る。俺は黙ってレモネードを出してやり、折りたたまれた10ドル札を受け取る役だ。
 ところが、そんなあいつがぱったりと姿を見せなくなった時期があった。何かあったのかと懸念したが、その後一度だけ若いにーちゃんを連れて来たので取り越し苦労だとわかった。
 いつも独りきりのあいつが、誰かを連れてくるなんて初めてだったからな。
 明るい金髪に紫の目、顔立ちは小綺麗だがちょっと根暗そうなガキだ。あんなのがタイプだったとは意外だったが、幸せそうにしてるのを見た俺は確かに安心していた。……あいつがまた一人で現れるようになるまでは。
 あいつはまた、一人で来てはテイクアウトされるようになった。何があったのかは、奴の顔を見れば一目瞭然だ。あれは振られたな……。同情もあって、奴に声をかける人間は後を絶たなかった。
 だが奇妙なことに、奴は男からの誘いは全て断っていた。あいつはどうも年上に好かれるというか、金持ちのおっさんなんかに人気があったと思うんだが、それにことごとくノーと返している。女性に対しても首を振ることが多かったが、たまに押し切られて連れ出されていた。が、どんな女傑でもあいつをホテルか自宅に連れ込むことは出来なかったと見える。後日散々愚痴られたから俺にはお見通しだよ。
 まあそんなこんなで、あいつの挙動がおかしかったからな。ある日、気になって気になって我慢できなくなった俺は、その理由について本人に直接問い質すことにした。
 そうしたら、あいつはちょっと困ったような、照れたような笑みを浮かべて言った。
「それほど深い理由がある訳ではないんだ」
 そう呟いて、奴は静かに目を伏せた。その声はごく小さく、危うく聞き逃すところだった。
「……ただ、彼をわたしの最後の男にしたかっただけなんだよ」
 そのときあいつのこぼした涙はほんの一滴だった。だけど、わかるか? あいつは泣きたくても泣けなかったんだよ。
 何でかって? 当たり前だろ、あの猫背のガキに迷惑をかけたくなかったからさ。本当はわんわん泣きたかったに決まってる。

 なあ、おい。どう思う。
 あいつのことは、お前の方がよくわかってんじゃねえのか。
 俺はお前たちの事情どころか名前も知らないが、それでもあいつがあんたを好きで堪らないのは知ってる。あんただって、奴を気にしてここに来たんだろ。
 ……いいか、俺の「独り言」はこれで終わりだ。わかったらさっさと金払って出ていけ。そんでもって二度とこの店に顔を出すんじゃねえぞオリエンタルかぶれ野郎、一人ではな。
 あ? うるせえ、さっさと行きやがれ、ショットガンぶっ放されたいか!

 ……はあ……やっと行ったか。骨折り損だぜ。
 あいつもあんなうじうじした奴のどこがいいんだか。ったく。……畜生。次やりやがったら絶対に譲るものかよ。
(今夜ばかりは、俺も酒に頼るほかない)


(10.17.12)


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