朝の光


 布一枚を隔て、大気が熱せられた気配が伝わってくる。涼しい室内で小さく寝返りを打つと、膝がひんやりとしたシーツに触れる。
「ん……」
 指先をのばすと、彼の体温に触れた。
 キースさん。思いながらゆっくりと目を開く。いつしか彼の意識は眠りから浮上しつつある。だが、そこには何か漠然とした違和感があった。何かがおかしい。
 ぼんやりと見開いた視線の先、彼のすぐ目の前で、キースは穏やかに眠っている。
 眠りの浅いバーナビーは時折早朝に目を醒ます。そんな時は、腕の中にキースを見つけては再び眠りに落ちるのが彼の習慣だった。そのはずだ。
 不吉な胸の高ぶりをおぼえる。バーナビーは眉をひそめ、少し頭をもたげて彼の更に後ろにあるカーテンを見た。
 いつもなら明るく射し込むはずの陽光は、今は分厚いカーテンに遮られている。それでもその隙間から漏れる光量は、今が決して早朝などではないことを物語っていた。普段通りの時間帯にしては明るすぎる。
「……す、スカイハイさん、」
 とたんにさあっと青ざめ、バーナビーはキースの肩を揺すった。呼び名が戻っていることには気付かなかった。
「ん……バーナビーくん……?」
「スカイハイさん、朝、です」
 言いながら、バーナビーは内心で自問自答を繰り返している。何故だ。アラームが鳴らなかったのだろうか。あるいは止めてしまった? 誰が? いやそれよりも今は急がなければ――。
 キースはそんな彼の百面相をしばらく不思議そうに見ていたが、ふと我に返ったようだった。ばたばたと着替えはじめているバーナビーを見る彼の目がどんどん丸くなる。
「えっ」
 彼の唇から驚きの声がこぼれおちた。
「遅刻、そして遅刻じゃないかバーナビーくん!」
「だから早く支度してください!」
 キースが驚いて声を上げると、途端に緊張が最高潮にまで押し上げられた。悲鳴じみた声で返し、バーナビーはシャワールームに飛び込んだ。シャワーカーテンを勢いよく引く。
「バーナビーくん! わ、わたしもシャワーを使いたいよ!」
「すぐ出ますから歯でも磨いてください!」
 水音に遮られまいと上がる声に、盛大に飛沫をはね散らかすバーナビーも大声でかえす。何とかシャワーを済ませ、手早くドライヤーをかけた。歯を磨きながら靴下を履いていると、背中にキースがぶつかってくる。
「ふぁいふうんえふは!」
 何するんですか、と綺麗に発音している余裕はない。眦を吊り上げて言うが、キースはバーナビーを見もせずにベッド周辺を探している。
「すまない、わたしの靴下が見当たらないんだ」
「ふぁんほうひのふぁはへふ」
「何を言ってるかわからないよ!」
「乾燥機の中です!」
 今度はキースが悲鳴をあげた。バーナビーが怒鳴り返す。
 そうして二人は半ば喧嘩でもしているような調子で押し合いへしあいしながら部屋から出た。
「くそっ、僕としたことが……」
「バーナビーくんっ、いいからはやく!」
「押さないでください!」
 お互いを押し出すようにドアを出る。大慌てでブーツの紐を結ぶバーナビーの頭上で、キースがエレベータのボタンを押す。つい何度も押してしまっているあたり、彼の焦りようが見て取れた。
「……」
「……」
 二人はいらいらとエレベータを待ち、そしてふと動きを止めて顔を見合わせた。
 おかしい。いや、何かもっと根本的なところが変だ。
 もうとっくに遅刻している時間なのに、キースのPDAも、バーナビーのものも、沈黙したまま。携帯にも連絡が入っていた気配はない。会社か、あるいはヒーローTVか、とにかくどこかからでも連絡が来てもいいはずだ――二人が、遅刻しているのなら。
 もしかして、もしかすると。硬直するバーナビーの前で、キースが恐る恐るスケジュール管理画面を開いた。
 予定はゼロ。
 そして予定の代わりに、休暇に使うマークがぽつりと入っていた。
「……その、わたしは、休日のようだよ、バーナビーくん」
 呆然としながらも、バーナビーも彼に倣ってスケジュールを確認する。
「僕も……休日みたいです」
「は……」
 マンションのエレベータホールで、それぞれ出したスケジュール管理画面をぼんやり眺める。エレベータはまだ来ない。
「……どうしましょうか」
 顔が熱い。キースを叩き起こしてあれだけ大騒ぎをしたことは、今となっては最優先で消し去りたい記憶になっていた。
 卒倒したい。今すぐ。内心でそう念じているのを知ってか知らずか、キースはほうっと息を吐いて肩から力を抜いた。
「遅刻していなくて良かった、そして良かった!」
 照れ臭そうに微笑むキースの横で、ようやく到着したエレベータがチンと音を立てて開く。
「それで提案なんだが、バーナビーくん。せっかく支度できているんだ、このまま朝食に出掛けないかい?」
 優雅にエレベータを指した彼の腹が小さくキュウと鳴ったので、バーナビーは羞恥を忘れて頷いた。
「はい、キースさん」


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 エレベータのボタンが並ぶ上に、小さな画面がある。
 こうやって監視カメラの映像をリアルタイムで見られるようにしているのは、防犯のためなのだろう。初めてこのエレベータに乗ったとき、キースが楽しそうにその映像を見ていたことが記憶に新しい。
 この監視カメラだが、ちょうど左端の角に背中を押し当てると、うまく死角に入ることができる。映像から消えるのを確認し、バーナビーの名を呼んで楽しげに笑うキースに、「実は僕もやりました」とは言い出せず曖昧に笑い返したのだったか。
 エレベータの中、そんなことを思い返したバーナビーが階数表示を見る。
 住宅用のエレベータは、安全のためにオフィス用のものよりずっとゆっくり動く。部屋から地上に辿り着くまでに数分かかることが馬鹿馬鹿しい反面、不可抗力なので文句は言えない。
「朝食はおいしかったね」
「ええ」
 当たり障りのない会話をしながら、ふと、自分があと一歩さがれば死角に入れることに気付く。バーナビーはキースの腕を軽く引き寄せた。
「ん、」
 驚いて目を見開くキースは抵抗しない。その代わり、彼の視線がちらりと画面に向けられた。そこにバーナビーの姿はなく、キースの身体も半分切れている。
「唇にケチャップがついている気がしたので」
 じわじわと頬を紅潮させる彼に、バーナビーがうそぶく。そんな気がしたはずなどない。
「そ、そうかい……?」
「気のせいでした。コーヒーの味ですね」
 しれっと言って、彼は何事もなかったように正面を向いた。
 彼は恥ずかしがっているだろうか。キースが言葉を失うさまを楽しむつもりで視線をやる。だが、意外なことに彼はごく落ち着いた様子で、しかし目を細めてバーナビーをじっと見ていた。
「はやく部屋に戻ろう」
 その一言に情欲が垣間見えて動揺する。キースはあまりそういったことをはっきりと主張するタイプではない。そう思っていただけに意表を突かれて、バーナビーはごくりと喉を鳴らした。
「……そうですね」
 返した呟きは掠れていて、その羞恥を拭うために彼はこれから少々強引な真似をすることになるだろう。


(10.05.12)


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