ひとの路を邪魔する奴は


「おいっどうするんだよ」
「僕に訊かれたって知りませんよ……」
「ちょっと! あのままにしておいたらまずいんじゃないの?」
「喋ってないのに全部聴こえるよ?」
「困ったわねぇ……」
「何かの能力なんだろ? まずは能力者を見つけねぇと……」
「やあみんな、何を相談しているんだい?」
「!」
 早朝のトレーニングルームで額を突き合わせて相談し合っていたヒーローたちは、キースの声に弾かれたように顔を上げた。シュッと開いた扉から、いつものトレーニングウェアを着たキースが笑顔で歩み寄ってくる。
「うわっ、おいっ、本人が来ちまった」
「……この際ですからスカイハイさんにははっきり話しておきましょう」
「えっ、ちょっと……折紙の気持ちはいいの?!」
 断言したバーナビーにカリーナが噛み付く。
「どうせ近くまで行ったらバレてしまうんですから、先に心の準備をして置いて貰った方が、先輩にもバレにくいはずです」
「そりゃそうだけど……」
 不満顔ではありながらも頷いたカリーナと、ごく冷静に眼鏡を持ち上げるバーナビーのやりとりを、キースがきょとんとして見ている。
「? 何があったのかな?」
「実は、折紙先輩がNEXT能力者に攻撃されたんです」
「ええっ! それは大変、そして大変だ! 折紙くんに怪我はないかい?」
「怪我はねぇんだけどよ、あいつの考えてることがぜーんぶだだもれになっちまってるんだ」
 虎徹が疲れ切った様子で口を挟む。ことりと首を傾げ、キースが虎徹を見た。疑問符が幾つも浮かんでいるのが見えるようだ。
「それが……問題なのかい?」
「あのコああ見えて繊細でしょ。誰にも知られていないはずの秘密がぜーんぶ知られちゃうってかなりのストレスよぉ。だから、あのコには、そんな能力がかかってるってことは秘密にしましょってことになったのよ」
「そうだよ! ボクだったらすごく恥ずかしいもん……」
 口々に説明され、キースは最初状況を掴み切れずに呆然としていたものの、納得してぽんと手を打った。
「なるほど、そして了解した! とにかく、折紙くんには彼の考えが読まれていることを悟らせなければいいんだね?」
「おっ珍しく察しがいいな」
 アントニオが苦笑いしてぐしゃぐしゃとキースの頭を撫でる。少し照れたように頷いて、キースは皆に約束した。
「約束しよう、決して折紙くんには悟らせないぞ! っと」
 だが、彼らは誰一人として安心した顔をしてはくれなかった。それに疑問を覚えつつも、キースは最後にトレーニングルームに入ってきたイワンに向けて快活に挨拶をした。
「あっイワンくん! おはよう、そしておはよう!」
「おはようございます、スカイハイさん、皆さん」
『やった! キースさんに挨拶された! 今日はいい日だなあ』
 イワンに挨拶された途端、エコーのような彼の声が響く。イワンは確かに挨拶の言葉しか発していない。彼の口は動いていないのに、彼の思考はどんどん続いていく。
『キースさん今日も可愛いなあ……あっ、寝癖がついてる!』
「!」
 寝癖、と聞いて慌てて髪を抑えようとしたキースの腕を、バーナビーががしっと掴んだ。
「えっ……えっ?」
「スカイハイさん、トレーニングに行きましょうか。ちょっとアドバイスして欲しいんですけど」
「あっわたしも!」
「あ、ああ、いいとも! そして勿論さ!」
 ほとんどバーナビーとカリーナに引きずられるようにしてキースはトレーニングマシンに向かう。そう言えば、イワンは何故スカイハイではなくキースと呼んでいたのだろう……。
 首を捻るキースの耳元に、バーナビーが囁く。
「早速バレるところだったじゃないですか! だから、彼の考えていることは僕たちには伝わっていないことになっているんです」
「そうよ、誰も発言していないのに寝癖に気付くなんておかしいでしょ!」
「あっ……その通りだね、バーナビーくん、カリーナくん。すまない……」
 困ったように眉を下げて謝罪するキースの耳には、イワンの内心の声は聞こえてこない。
「確認したところ、5フィート程度離れれば声は聞こえないようです。危なっかしいので、スカイハイさんは出来る限り先輩と距離を保ってください」
「そうだね、聞こえなければ問題ないね!」
 ようやく笑顔で頷いたキースを引っ張って行くバーナビーは、ちらりと肩越しに振り返る。そこでは、先程以上にげんなりした顔の虎徹が必死にイワンを引き止めていた。
「な、なあ、だからさ、昨日の事件でほんとに何の怪我もしてないのか?」
「大丈夫です、無傷でしたから」
『そんなことよりバーナビーさんはどうして! キースさんに! 触ってるんですか! 僕だってキースさんと手を繋ぎたい!』
 ビリビリと大音量で伝わってくる声に圧倒されそうになって、虎徹がぐっと脚に力を籠める。
『ああああブルーローズさんも仲良さそうに会話して……ぼ、僕もキースさんと会話したい……会話の糸口が欲しい……』
「そ、そりゃ良かった。ちゃんと検査したか?」
「はい。問題がなかったので今日もトレーニングに来ているんです。ご心配をお掛けしました」
『あああああっ! バーナビーさんが僕の定位置に……っ! キースさんの隣はもう右側しかあいてないじゃないですかああああ!』
「……ボク先にトレーニングしてくるねっ!」
『あっもしかして、もしかしてそんなっ、あああ……何でキッドさんまでキースさんの隣に……隣……』
 がっくりと頭を落としたイワンを可哀相なものを見る目で見ながら、ネイサンが肩を竦める。ちょうど彼の死角に立つアントニオもまた、やれやれと言いたげに首を振った。
 少なくともこの能力の効果が切れるまでは、イワンをキースに近付かせない方が無難だろう。無言のうちに、彼らはその結論に達していた。
『キースさぁん……ううう、キースさんのタオルになりたい……』
 まさか彼がこんなことを考えていただなんて、流石に誰も予想してはいなかったので。


   * * *


 取り敢えず折紙が気持ち悪い。
 カリーナは内心で深々とため息をつきながらも、それを表に出す訳にもいかずに無言を貫いている。そもそも、休憩時間はともかくとして、実際トレーニング中に雑談をするほどヒーローという稼業はお気軽なものではない。
 結局各自がそれぞれトレーニングを始めたものの、イワンは恨みがましくちらちらとキースの方を見てばかりいる。それも最もだろう。思い返してみれば、普段彼はちゃっかりとキースの隣でトレーニングをしていた。それが、今日に限ってはことごとく阻止されているのだから、諦め切れなくてもおかしくはない。
 同情はする。だが、そうは言っても気持ち悪いことには変わりない。
『あああキースさん……あっ! そろそろワンセット終わるからそしたら今度こそ隣に……!』
「……」
『なんで! なんでバーナビーさんはしつこくキースさんの隣をキープするんですかあああ!』
「……」
『せめて左……! 今すぐ行けば滑り込めるっ……!』
「ちょっと折紙」
「っは、はいっ?」
 立ち上がろうとした瞬間、カリーナに声を掛けられてイワンが硬直した。
「忘れてるわよ、タオル」
「か、……かたじけないでござる……」
 わざと引き止めながら、ちらりとキースを見遣る。彼の隣には、今度はアントニオが居る。目が合うと、彼は仕方ないだろうと言いたげな顔で肩を竦めた。そう、仕方ないのだ。
『どうして……どうしてでござるかああああ……』
 引き攣った笑顔でタオルを受け取ったイワンががっくりと項垂れる。マシンを途中で放り出して立ち上がろうとしていたものの、彼の心は今度こそ折られてしまったようだった。
「どうしたの」
「いえ、何でもないです……」
『キースさんの隣……拙者には隣に座って何とかキースさんの汗の匂いだけでも堪能したいという願いすら許されないのでござるか……』
 気持ち悪っ……。
 カリーナはぞわっと背中を震わせた。
 自分自身、恋をしている。イワンの気持ちに共感できる部分もある。だが、だからこそ、今の彼をキースに近づけることだけは絶対にできなかった。
 こんなに気持ちの悪い思考が本人に伝わったとしたらどうなるか、考えるだけで恐ろしい。ただの片想いならともかく、片想いの相手に引かれてしまうなんて悲劇以外のなにものでもない。
『いいんだ……僕はただの同僚でしかないけど、いつかキースさんと親しくなってキースさんをぺろぺろするんだ……。キースさんぺろぺろ! キースさんぺろぺろ!』
 幾らキースであっても、これは無理だろう。
 カリーナは黙ったまま首を振ると、まだ蓋も開けていなかったスポーツドリンクのボトルをイワンに押し付けた。
「これ、あげる」
「はあ……ありがとうございます」
『どうしたんだろう、ブルーローズさんが珍しく優しい。何かいいことでもあったのかな』
 珍しく、は余計よ!
 カリーナは一瞬でも同情してしまったことを後悔し、鬼のような形相でトレーニングを再開した。
 絶対、絶対にスカイハイには近付かせないんだから!


   * * *


「その……そろそろ休憩がしたいんだが」
 キースが言い出して初めて、アントニオはいつものノルマ以上の時間をトレーニングに費やしていたことに気が付いた。
「おっとすまん」
「いや、いいんだ。わたしが下手に折紙くんに近付いたらまずいのはわかっているからね」
 額に滲んだ汗をタオルで拭い、キースが微笑む。
「ただ、そろそろ一休み入れたくてね。君も一緒にどうだい?」
 反対側のマシンで、同じく手を休めていたバーナビーに問い掛ける。アントニオは彼に向かって首を振って見せた。
「いや、バーナビーはやめとけ」
「その方が良さそうですね……」
 バーナビーもまた、アントニオに同調する。それが何故なのかわからず、キースはアントニオを見遣った。
「どうしてだい?」
「あー……それはだな……」
 先程ちらりと確認した時、イワンが恨みをたっぷり籠めた視線でバーナビーを見ていたことを思い出す。恐らくバーナビーの側からはその様子がはっきりと見えるのだろう。だが、あまり具体的な説明をするとイワンの気持ちがそこからバレてしまう可能性がある。
 言葉に詰まったアントニオに助け舟を出すように、バーナビーがもっともらしく説明し始めた。
「あまり変わった行動をすると、先輩に異常を気付かれる恐れがあります。普段それほど一緒に居る訳ではない僕が、スカイハイさんにくっついているのは少しおかしいでしょう?」
「なるほど、流石はバーナビーくんだね!」
 大袈裟に感心しているキースに、いや、彼が感心して見ているバーナビーに向かって視線が突き刺さっていくのが見えるようだ。
 肩越しに恐るおそる振り返ると、イワンがギリギリと唇を噛み締めながらバーナビーを凝視していた。彼がこれ以上イワンから恨みを買うのは危険だ。色んな意味で。
「次は誰にするかな……」
 言いながら、アントニオはトレーニングルームを見渡した。まだイワンから恨まれていないであろう人物と言えば……。
 ぱっと目が合ったのはネイサンだ。あら、アタシ? そんな表情を浮かべたネイサンにばちんとウィンクを飛ばされて、アントニオは慌ててそっぽを向いた。いや、俺が個人的にあいつに借りを作りたくない。
 他に誰か居ないかと見回す。パオリンは自分自身のトレーニングに熱中しているし、カリーナも何故か鬼気迫る形相でトレーニングを続けている。ようやく虎徹と目が合って、アントニオは小さく顎をしゃくって見せた。心得たように虎徹が頷く。
「おいキース、虎徹を誘って休憩してきな。俺は折紙を引き止める」
「わかったよ。ありがとう、そして、ありがとう。……ワイルドくん、休憩しないかい!」
 タオルを首に掛け、キースが笑顔で虎徹に向かって歩き出した。途端に弾かれたようにイワンが立ち上がった気配を感じる。彼の視界からキースを隠すように立ち、アントニオはいかにもたまたま気付いた風を装って振り返った。ちょうど思考が読める圏内に入ったところで、通せんぼをする。
「おう、折紙じゃねぇか。どうだ、俺たちも休憩するか」
「は、はい。そうですね」
『今度こそキースさんに話し掛けようと思ったのに……!』
 だと思ったよ。
 諦めの悪さに内心舌打ちしながら、アントニオは気安くイワンの肩を引き寄せた。
『キースさんキースさん……あああ……キースさんが行ってしまう……』
「ちょうどいい。お前に相談したいことがあるんだ」
「相談、ですか?」
「ああ。ちょっとヒーローとしての方針についてお前からも意見を聞きたくてな……」
『拙者はキースさんに接近するための方針を探りたいでござるううううう』
 すまん。
 イワンの内心の悲鳴を聞き、アントニオはこっそり心の中でだけ謝罪した。
「まあこっちに来てくれ」
「はい……」
『うわっロックバイソンさん汗臭っ! キースさんなら何歳になってもきっと汗までいい香りがするに決まってるでござる! キースさんの汗を舐めたい! キースさんの汗をたっぷり吸ったタオルをもぐもぐしたい!』
「……」
「ロックバイソンさん?」
「あっ、いや、すまん……ええとな、お前さんはどうやって方針決めてんだ。その、参考までに聞かせてくれないか」
 ここまで気持ち悪いとは思わなかった。
 ドン引きするあまり言葉を失っていたアントニオが、慌てて取り繕うように質問する。適当な話題を選んだつもりだったが、実は本当に悩んでいることなのでこの際参考になるものなら聞いておきたかった。
「そうですね……うーん……まずは、」
『あっ! あそこにキースさんの飲み残しが……! どっどうしよう知らせるべきでござろうか! あるいはこのまま黙っていれば気付かずに忘れていくかも……!』
 語り出した彼の言葉に被さるように、彼の内心がアナウンスされていく。
「……という訳で、社長とも話し合った結果……」
『忘れてましたよ、と言って渡すついでにキースさんの手にちょこっと触るか、あるいはこのまま黙っておいて、忘れていったところを見計らってこっそり頂戴するか……。生きるべきか死ぬべきか、これは究極の選択でござる……!』
「……というのが、僕のヒーローとしての方針です。どうでしょうか、少しは参考になりますか?」
「あ? ああ……さ、参考になった」
 脳内アナウンスが騒々しすぎて、肝心の内容を全く聞き取れなかった。がっくりと項垂れたいところを必死で堪え、アントニオは引き攣った顔で何とか礼を述べた。
 正直なところ、気持ち悪いにもほどがある。
「では、僕は休憩してきますね」
「お、おう、」
『やっと! やっとキースさんと会話できるでござるうううううううう!』
 いかん! このままだと鉢合わせる……!
 アントニオはさっさと歩き出したイワンの背中を追って休憩室に入る。5フィート圏内に入ればイワンの脳内アナウンスはキースにも聞こえてしまう。イワンを足止めし、尚且つキースにその場を立ち去らせるいい方法は……。
 5フィート圏内まであと3歩、2歩。
 考えろ! 考えるんだ、アントニオ!
「おいスカイハイ、お前ドリンクをトレーニングルームに忘れてるぞ!」
『なん……だと……?!』
「あれっ? 本当だ、ありがとうバイソンくん!」
 虎徹と会話していたキースがぱっと顔を上げる。手元にドリンクがないことを確認して、小走りでトレーニングルームに戻っていった。ギリギリ5フィート圏を掠めるようにして去って行く。
 これでキースの安全は守られた。アントニオは知らず知らずほうっと大きくため息を吐いた。
『そんな……そんな……っ!』
 イワンはと言うと、たった今トレーニングルームから休憩室に入ったところで引き返す理由もない。それどころか、キースに接近するか、飲み残しを手に入れるかという機会すら失って茫然自失の状態だ。
『おおお……神は拙者を見捨てたでござる……神は死んだ!』
 すまんが、今回ばかりは神のせいじゃあないな。
 アントニオは疲れ切って、今度こそぐったりとソファに沈み込んだ。


   * * *


 疲れ果てた様子の親友にねぎらいの言葉をかけてやりたいが、イワンの手前そうする訳にもいかない。虎徹は呆然と立ち尽くすイワンに近寄ると、その肩をバンと叩いた。
「お疲れさん! 今日は頑張るじゃねぇか」
『キースさんのスポーツドリンク……キースさんのスポーツドリンク……』
 念仏のように繰り返されるそれに何があったのか察し、虎徹は内心でアントニオに賞賛を贈った。イワンのダメージは計り知れない。可哀相ではあるが、この調子でキースに近寄ることも諦めてくれればいいのだが。
「いえ……ちょっとロックバイソンさんと雑談をしていたので……」
 イワンが心中のダメージを押し隠して健気に微笑む。
「そうかそうか! まあ、トレーニングに戻る前に休憩していけって。何か飲み物でも奢ってやろうか」
「ブルーローズさんに貰ったので大丈夫です」
『あんな機会滅多にないのに……! いつもマイボトル持参だから絶対に手が出せなかったのが、今日に限ってのペットボトル! 絶好のチャンスだったはずが……あああ……やっぱり日頃の行いが悪いのかな……』
 日頃何をしているんだ。
 詰問したくなるのをぐっと堪え、虎徹はイワンを促してソファに座らせた。
 そして気付いた。
 あいつ……タオル忘れて行きやがった……!
「あっ! あー、その、実はな折紙、俺のジョークを聞いて欲しくてだな!」
 イワンが座ったちょうどその真後ろに、キースのタオルがある。これまでのイワンの脳内放送は距離が離れていたために聞こえてはいなかったが、ペットボトルにすらあれだけ執着するのだ、キースのタオルが忘れられていることに気付いたが最後、どんな行動に出るかわからない。
 今まで俺たちはこんな危険な奴と一緒に過ごしていたのか……!
「タイガーさん? どうかしましたか?」
 ごくりと生唾を飲み込んだ虎徹の様子に、イワンが首を傾げる。視線の先が気になるのだろう。振り返ろうとしたイワンの肩をがっしと掴み、虎徹は真顔で語り掛けた。
「頼む、聞いてくれ。俺のジョークを」
「い、いいですけど、どうしたんですかそんなに真剣になって……」
「いや、実は、バーナビーにもジョークを聞かせようと思ってるんだが、あいつに馬鹿にされたら悔しいだろ」
「まあ……そうですね」
「だからお前に感想を聞きたい」
 完璧な理由だ。内心悦に入っていた虎徹は、「それでは聞かせてください」と促されてぐっと詰まった。
 実を言うと、そんなジョークなど用意していない。口から出まかせを言ったはいいものの、実際にジョークを話す以外に選択肢がなくなってしまった。何か、何かないか……。
「ええと、そうだな……」
 虎徹が口を開きかけた瞬間、イワンの脳内アナウンスが絶叫に近い音量で響き渡った。
『こっ……これはぁぁああぁああっ!』
 思わずびくっと肩が跳ねる。
『このっ、この感触は……タオル! 先程までキースさんが座っていた位置にある! タオル! つまりもしかしてもしかしなくてもこれはキースさんの! タオルではござらんかあああああっ!』
 しまった、気付かれた!
 たまたま手を後ろについたために、指先がタオルに触れたのだろう。イワンは完全に指先に集中しきっている。虎徹からは彼の手元がはっきりと見えていた。
 このままではまずい。キースのタオルがイワンの手に渡ったらどんなことになるか……。この際イワンがタオルを拝借して行くのは仕方ないとしても、それをキースに渡しに行こうとしたら一巻の終わりだ。
 曲がりなりにもイワンはヒーローとしての仲間だ。そして彼は無自覚ながら非常な危険に居る。彼を助けないという選択肢は虎徹にはない。
 必死で考えているうちに、一つ最高に笑えるジョークを思い出した。これだ。これなら、イワンも引っくり返って笑うだろう。そうしたらタオルから意識も逸れるはずだ。
「まあ聞いてくれ。ある生徒に先生が言った。あなたのお母さんは10ドル持っています。あなたがお母さんに2ドルくださいと言ったら、残りは何ドルでしょうか」
「……8ドルですか?」
『キースさんのタオル……! 拙者は今、キースさんのタオルに触れているでござるっ! キースさんが汗を拭いたタオルに触れているということは、拙者は間接的にキースさんの汗を拭ったということでござるよっ! うおおおおおおおお!』
「残念! その生徒は答えた。10ドルです。先生は、あなたは問題を理解していませんね、と言った。生徒は、あなたはわたしのお母さんを理解していませんね、と答えた。どうだ?」
「ふーん、悪くないんじゃないですか?」
『このタオルをキースさんに渡せば会話の糸口が掴める……! いや、渡す前にちょっとだけお借りして汗の匂いを堪能したい……口に入れてもぐもぐしたらさすがにバレるかな……ちょっとだけ、先っぽだけなら!』
 うん、気持ち悪い。ほんっと気持ち悪い。
 虎徹は生温い表情でイワンを見遣った。イワンがハッとして虎徹を見る。虎徹は心を鬼にすることに決めた。正直なところ、渾身のジョークを軽く流されたことも決め手の一つだった。
「お、それスカイハイのタオルか」
 立ち上がり様、ひょいとタオルを摘み上げる。ああっとイワンの内心の悲鳴が聞こえてきた。
『タタタタタタオル……! キースさんの聖なる布がぁ……っ!』
「あっ、そのっ、僕が渡してきましょうか! もうトレーニング戻りますし!」
『何とか……! せ、せめて匂いを嗅ぐだけでも……!』
「いや、俺はちょっと休憩しすぎたくらいだから、トレーニングに戻るついでに渡しといてやるよ。ジョーク聞いてくれてありがとな、折紙!」
 あくまでもにこやかに笑って、目の前でタオルをくるりと回す。イワンが今にも砕け散りそうな笑顔で頷いた。
「……はい、お願いします……」
 次は誰にこいつを引き取らせるべきか。思いながらトレーニングルームに向かって一歩踏み出した虎徹は、ちょうどドアを開いて入ってきたパオリンを見つけて片手を挙げた。
「あー、そうだ、ドラゴンキッド、お前こいつの相手してやれよ。こいつ全然休憩してないのにもうトレーニング続けるとか言い出してな。ちょっとは休めって!」
「あっ折紙さんだー! うん、いいよ! 折紙さん、ボクとお話ししよ!」
 笑顔で駆け寄ってくるパオリンを拒絶することなど、イワンに出来るはずがない。
『あああ……スポーツドリンクのみならずタオルまでも……天は拙者を見放したでござる……』
「何か落ち込んでるの?」
「そっそんなことはないでござるよ!」
『いけない、一番年下のドラゴンキッドさんに心配されるようじゃ僕もまだまだだな……完璧に隠し通さないと!』
 二人の、イワンの内心を含む遣り取りを見る限り、問題なさそうだ。パオリンが鋭いのはもともとだし、イワンに気取られる恐れもないだろう。
「じゃあな!」
 虎徹は肩の荷が下りた気分でトレーニングルームへと足を踏み出した。


   * * *


『はああ……タオル……ペットボトル……』
 イワンが恨みがましく閉じられたドアを眺めているのを、パオリンは首を傾げて見守っている。
「ねえ、やっぱり何を落ち込んでるの? ボクが話を聞こうか?」
「あっ、いえ、何でもないです……」
「ほんと?」
「はい」
 イワンが頷く。きちんとイワンの意識が自分の方に向けられたことを確認して、パオリンが微笑む。イワンはキースのことが大好きなのだ。それなのに、今日は朝の挨拶以来何も会話できていない。
 仕方ないけれど、その分がっかりしたはずだ。よく頑張ったね、という気持ちを籠めて、パオリンはぽんぽんとイワンの肩を叩いた。
「ねえ、スカイハイのことこっそり覗きに行こう」
「えっ」
 パオリンの提案に、イワンは多大なる衝撃を受けたようだった。仰け反って彼女を見つめ返している。
「の、覗きに行くんですか」
「うん。折紙さんは一番好きなヒーローって誰?」
「……そりゃあ、スカイハイさんですけど」
 にっこりと微笑んだパオリンが、勢い良く立ち上がった。
「でしょ! じゃあ決まり! いい、こっそりだよ!」
「は、はい」
 イワンを押し切って、パオリンは早速彼の腕を掴むと、トレーニングルームに入った。中央にある柱に隠れるようにしてそうっと回り込む。そして二人はあるトレーニングマシンの裏に腰掛けると、隙間からじいっとキースを眺めた。
 彼はというと、先程とは異なるマシンを使ってトレーニングに打ち込んでいる。真剣な表情で、規則正しく。
『ああ、キースさん……』
 遠目に彼を眺めながら、イワンが悲しそうな顔をする。
『キースさんと会話したい……。キースさんに笑って貰いたい……それだけなのに、どうして今日はこんなに上手くいかないんだろう』
 嘆息しそうになって、しかしパオリンの手前思い止まったようだ。イワンは無言でキースの方を眺めている。
 パオリンはそんな彼に問い掛けてみることにした。
「折紙さんは、スカイハイのどこが好きなの?」
「えっ!」
「ボク、スカイハイの背中が好きだな! えーいって後ろから飛び付いたら受け止めてくれるんだよ」
「ああ、そういうことですか……」
『てっきり僕の気持ちがバレたのかと思った……危ない危ない、自分からばらしてしまいそうだった』
 胸を撫で下ろしたイワンが、うーんと唸る。そうやってしばらく悩んでから、彼はどこか眩しそうな目付きで語り始めた。
「そうですね……僕は、スカイハイさんの、足が好きです。彼がひとと対話するとき、いつも爪先がぴしっとしているんです。知ってますか? 一生懸命になっていると、その方向に足がぴしっとするんです。そこが、好きです」
 イワンの脳内放送は全く聞こえなかった。つまり、これはイワンの本心なのだった。
「僕と話すときも、スカイハイさんは爪先をぴっと伸ばしている。それがすごく嬉しいんです」
「ふうん」
 パオリンは彼の隣で並んでキースを眺めながら頷いた。
 キースの身体が規則正しく動く。真剣な表情で、身体を鍛えている。
「スカイハイも」
「?」
 ぽつり、パオリンが呟いたので、イワンが首を傾げて彼女を見た。彼女はまっすぐにキースを見ている。
「スカイハイも、そんな風に折紙さんのこと好きだといいね」
「……そうですね」
 イワンが頷いたので、パオリンは安心して笑顔を浮かべた。ぐいぐいと彼の肩を押して無理矢理立たせる。
「あーお腹すいちゃった! 折紙さん、おやつ食べよ!」
「ああもう、わかりました」
 苦笑しながらも了承する彼が少しは元気を出したようだったので、パオリンはこっそり振り返ってキースに手を振って見せた。大丈夫!


   * * *


「次はお前の番な」
「嫌です」
 虎徹に声を掛けられ、バーナビーは顔を顰めた。そうならないように、わざと休憩もそこそこに戻ってきていたのに、無駄だったようだ。ちょうど虎徹とキースが隣り合ってトレーニングをしている前を通り過ぎるところだったのだが、それが裏目に出た。
「これ以上恨みを買ったら刺されます」
「えっ! バーナビーくんは刺されてしまうのかい? それは犯罪、そして犯罪だよ!」
「ああ、そりゃものの例えだ、安心しろ」
 手慣れた風にあしらわれ、目を丸くしていたキースがなるほどと唸った。
「ま、幾らあいつでも刺したりはしねえだろ。第一、もう気にしてないんじゃないか?」
 虎徹の言う通り、イワンの気分はだいぶ改善したようだった。少なくとも、彼の脳内からだだ漏れている内容を伝え聞いたところによれば。
「他に頼れる奴が居ないんだよ。なっ!」
「仕方ないですね……」
 バーナビーがイワンをキースから引き離す役をするのは実質的には二度目だったが、虎徹に言いくるめられてしまえばお手上げだった。
「……ところで、扱いが手慣れてますね」
「お前が来る前からずっとこの調子だからな……なっ、スカイハイ!」
「えっ? なんだい?」
 唐突に話題を振られて、ワークアウトに集中していたキースが首を傾げる。
「お前はバーナビーが来る前から変わってないよなって話だよ」
「ああ、そうだね! わたしは変わっていないとも!」
「……なるほど」
 バーナビーは苦笑して休憩室に向かった。気は進まないながら、イワンに近付く。
 どこで買ってきたのだか、ホットドッグを頬張るパオリンは、既に何個か平らげていたようだ。イワンはと言うと、そんな彼女の様子をげんなりした顔で見ている。
「おいしかったっ! ごちそうさま!」
「はあ。それじゃ、トレーニングルームに戻りましょうか」
『よし、今度こそはキースさんの隣を狙いに行くか……! 幾ら何でも必ず誰かが周りを固めているってことはないはずだし、きっとたまたまだったんだ』
 やっぱり諦めていない……。
 こうなったら徹底的に阻止しなければなるまい。
 イワンが心持ち嬉しそうな表情で立ち上がりかける。ちょうど今しがた通りがかった風を装い、バーナビーは彼の背後から声をかけた。
「お疲れさまです、先輩」
「あっ、バーナビーさん」
『キースさんはトレーニングルームだし……うん、やっぱりバーナビーさんがキースさんを狙ってると思ったのは考え過ぎだったか』
 考え過ぎもいいところです……。
 バーナビーは辟易した内心を顔に出さないように細心の注意を払いつつ、にこやかに彼へと微笑み掛けた。
「そろそろトレーニングルームに戻りますよね? せっかくですから一緒に戻りましょう」
 イワンはキースのことばかりに集中しているのだから、バーナビーには注意を払っていないだろうと想定しての話だ。勿論、バーナビーはイワンに話し掛けるためにわざわざ休憩室に戻ってきている。
 あたかも自分も先ほどまで休憩していたとでも言うように振る舞えばバレたりはしないだろう。彼はそう思っていた。
「あれっ? バーナビーさん、さっきトレーニングルームに戻ってましたよね?」
 だから、まさか自分までもがイワンに観察されていたとは思ってもいなかったのだった。
「え、ええ」
 否定すると嘘の上塗りになって、ますます怪しまれる。怪訝そうに問い掛けられ、バーナビーはぎこちなく頷いた。
「どうしてですか?」
『普段はあんまり他人に関心を持たないバーナビーさんが誘ってくるのもおかしい……何か目的でもあるのかな』
 更に質問を重ねられ、退路を断たれる。焦ったものの、彼の内心が読めることが幸いした。バーナビーは観念した風を装い、眼鏡を押し上げた。
「実は、折紙先輩のトレーニングメニューを知りたくて誘ったんです」
「僕の?」
『え、僕のトレーニングメニュー? 何で?』
 内心と言動が一致している。予想外の回答を与えられたからだ。バーナビーは有利を確信して、照れ臭そうな表情を浮かべた。
「僕が見たところ、近接の戦闘能力が一番高いのは先輩です。スカイハイさんは勿論優れていますが、彼は中距離から遠距離のタイプです。参考にするなら先輩が一番適していると思って……こっそり盗めたらと思ったんですが、バレてしまいましたね」
「えっ、……ぼ、僕なんか参考になりませんよ」
「そう言われると思って黙っていたんです。勿論参考になりますよ。何かアドバイスとかありませんか」
「アドバイス……」
 イワンが腕を組んで考え込む。これで不自然な行動の理由は完全にカバーできたはずだ。
 先輩くらい僕にだって丸め込めますよ。
 そう思ったバーナビーは、次の瞬間眉が跳ね上がりそうになるのを堪えるのに多大な労力を要することになった。
『へえ……バーナビーさんでも他人に教えを請いたいと思うことがあるんだ。僕はてっきり、あの人は自信家だし、自己主義の唯我独尊型かと思ってたけど。自分以外はみんな底辺みたいな。ふうん、意外だな』
 自己主義。唯我独尊。ある意味図星をさされて、バーナビーは笑顔のままひっそりと奥歯を噛み締めた。
 勿論口に出して言われた訳ではないので、本人に反論することすらできない。不愉快な気持ちのやり場がなく、苦心して平静を装う。
「ええ、アドバイスがあったら是非聞かせてください」
 言いながら彼は歩き出す。イワンはまだ腕組みをしたまま考え込んでいる。
『うーん……何かアドバイス……もっと人の意見を聞いた方がいいですよとか……いや、それは失礼すぎるか。周囲との連携を考えるようにしたらどうですかとか……これも言うべきじゃないな……』
 次々と聞こえてくるイワンの心の声にいちいち青筋を立てそうになるが、ぐっと堪えてトレーニングルームに入る。そしてバーナビーはごく自然な動作でキースの隣のマシンに陣取った。
「思い浮かんだらでいいので、急がなくても大丈夫ですよ。……僕は先にトレーニング始めてますね」
 にっこりと微笑んで見せる。言われてようやく顔を上げたイワンが、あっと叫びそうになったのにようやく溜飲が下がった。
『あああああ……! ま、また……! またキースさんの隣がああああああ!』
 イワンが気付かないうちにキースの隣を確保したバーナビーは、「どうかしたんですか」と晴れやかな表情で問い掛けた。
「い、いえ、なんでもありません……あの、アドバイス思いついたら言いますね……」
『どうして! どうしてもう一つ横のマシンじゃなくてそのマシンじゃなきゃいけなかったんですかバーナビーさああああん! ひ、酷い……酷すぎる……』
 すごすごと他のマシンに向かうイワンを見送って、バーナビーはフンと鼻で笑った。
「……ちょっと、やり過ぎじゃないのォ?」
 自分のマシンから離れたネイサンが、通り過ぎざまにそう声を掛けてくる。心配そうにイワンの丸まった背中を眺めながら言われて、罪悪感が掠める。
「そうでしょうか」
「そうよォ、傷付いてるじゃない」
「スカイハイさんに近付かせないためには仕方なかったんですよ」
 バーナビーはそう言い切ったが、確かにやり過ぎたかもしれないと思い直した。しょぼくれたままトレーニングを再開したイワンを眺め、小さく嘆息した。
「まあ、あのNEXT能力の効果が切れたら、キースさんの隣くらい譲りますよ」


   * * *


 イワンがNEXT能力の影響で内心で考えていることを周囲に音声として伝えてしまうようになるずっと前から、ネイサンは彼がキースに特別な思いを寄せていることに気付いていた。
 応援してやりたい気持ちはやまやまだったが、同性同士の恋愛、それも特に誰よりもヘテロの傾向が強いキースを相手に考えると、その思いは報われない可能性が高すぎる。だから、ネイサンは黙って彼を見守っていたのだった。
 長かったトレーニングを終えて、ヒーローたちはそれぞれ引き上げようとしている。ここで解散するまでが肝要だ。イワンがヘリペリデスファイナンスに戻り次第、彼のことはヘリペリデス側でフォローして貰えるという話だった。要は、彼が全くどこにも寄り道をせずに社まで戻ってくれれば無事に今日が終わる。
 イワンの監視役をバーナビーに引き継がれたものの、ネイサンを含む誰もが安心して、気が抜けていたところだった。
『今日はうまくいかなかったなあ……キースさんとは全然喋れなかったし……。そうだ、一緒に帰りませんかって誘ってみよう! いつも勇気が出なくて誘ったことなんてなかったけど、このままじゃキースさんとの距離は絶対縮まらないし。駄目でもともと、拙者も時には男を見せるでござる!』
 そ、そこで男を見せなくてもいいのよ!
 唯一、彼の声を聞くことのできる範囲内に居たネイサンは驚愕した。
 慌てて阻止しようとするが、ネイサン以外の誰も、彼の内心には気付いていない。
「ちょ、ちょっと、折紙ちゃん!」
「何ですか?」
『あっ……こ、こんなところで……! まあ、キースさんはまだスポーツドリンクを飲んでるし、まだしばらくは居るか……』
 彼の内心の声を聞く限り、決意は固いようだ。
 ネイサンはちょいちょいとイワンに手招きをした。既にこれまでイワンを引き止める役をしてきたメンバーたちから、どんな会話をしたのか聞き出している。相談やジョークなど、もう出尽くした手は使えない。かくなる上は最終手段だ。
「ねぇ、アタシ知ってるのよ」
「何をですか?」
「折紙ちゃんたら、とぼけちゃって! ……好きなんでしょ、スカイハイの、こ、と!」
「……!」
『な、何で知ってるんだ……! えっ、もしかして他の人にも気付かれて……いや、ファイヤーエンブレムさんは鋭いからかもしれない……』
 今となっては本人以外の全員が知ってるわよ、とは思ったが、それは言ってはならない。ネイサンはフフンと鼻を鳴らした。
「アタシの目は誤魔化せないわよォ」
「や、やっぱり……」
 羞恥で真っ赤になるイワンに、ネイサンは目を細めて囁き掛けた。
「良かったら相談に乗ってあげるわよ? この後時間あるでしょ?」
「えっ……」
『どうしよう……確かにファイヤーさんは恋愛事とか百戦錬磨って感じだし、相談に乗って貰ったら進展が見込めるかもしれない……! あっ! あああ! キースさんが立ち上がった! このままだとキースさんはシャワーに行ってしまう! キースさんの浴びたシャワーのお湯を飲みたい! 排水口に擬態して飲みたいでござるううう!』
 ほんとに歪みないわね。
 内心で呆れつつ、ネイサンは更に畳み掛ける。
「男同士の恋愛なら、アタシがエキスパートに決まってるじゃない。このまま、ただの同僚ってだけの関係でいいの? アンタたちデートすらしたことないんじゃない?」
 勿論、あくまでも相談に乗るだけだ。適切なアドバイスをする気などさらさらないが、嘘も方便。イワンがキースと二人きりにさえならなければ構わないというのがネイサンの考えだ。
「えっと……」
『た、確かに拙者はキースさんと二人きりで会話したことすらないでござる……。だが、拙者はキースさんを誘って一緒に帰ると固く誓ったではござらんかぁ! ここで信念を曲げては男が廃る……しかし、ファイヤー殿のアドバイスも捨てがたいでござるうぅ……』
 彼の心が揺れている。あとひと押しだと確信したネイサンは、にっこりと会心の笑みを浮かべた。
「あらぁ、迷ってるの? こんなチャンス滅多にないのよ? アタシだってヒマじゃないんだから」
 これでいける! そう確信した次の瞬間だった。
『せ、拙者は男になるでござるうううううぅっ!』
「キースさんっ!」
「?!」
 突然バッと身を翻し、イワンがキースに走り寄って行く。シャワールームに行こうとして振り返ったキースとの間を遮る者は誰も居ない。あっと皆が驚く中、イワンがキースの手を握り締め、大声で叫んだ。
「キースさん、好きです!」
『スカイハイさん、僕と一緒に帰りませんか!』
 逆だろぉぉぉおおお!
 誰もが心の中で突っ込むが、口を開いた人間は居ない。しん、と静けさが室内に満ちる。ネイサンもまた、ぽかんと口を開けたまま彼らを眺めるしかない。
 真っ赤な顔で、勢いのまま目を閉じていたイワンが、ふと何かがおかしいことに気付いたのかゆっくりと顔を上げた。
『……あれっ?』
「折紙くん……?」
「えっ、あの、……えっ」
『ま、ま、まさか……まさか拙者はうっかり本心を言ってしまったでござるかあああああああああ!』
 イワンが激しく動揺している。キースもまた驚きの表情を浮かべていたが、イワンの内心の声を聞いて我に返ったのか、はっとした顔でイワンに向き直った。
「イワンくん! それは、……それは君の本心なのかい?」
 イワン……くん……?
 ネイサンが首を捻る。この二人はそもそも名前で呼び合うほど親しかっただろうか。そう考えてから、すぐに思い直す。確かに先ほど、イワンの内心の声で二人きりで話したことすらないということを確認したばかりだ。
 つまり、それは、もしかして。
「……そ、……そうです……」
 消え入りそうな声でイワンが頷く。そうして耳どころか首まで真っ赤にした彼を、唐突にキースが抱き締めた。
「嬉しい、そして嬉しいよ、イワンくん! わたしもずっと君のことが好きだったんだ……!」
「ええええええええええマジかよ!」
「嘘ぉぉぉおおお!」
「お、俺の苦労は一体……」
「何だったんですか……」
「よかったね折紙さん!」
 悲鳴を上げる者、がっくりと項垂れる者、悲喜交々の声が上がる。イワンはと言うと、魂が抜けたようになっていて、内心の声すら空白状態だ。
「……まさか両想いだったなんて、アタシにも予想外だったわ」
 ネイサンは天を仰いで首を振った。
「結局、ぜーんぶ余計なお世話だったってことね……」
 そのコメントに当事者以外の誰もが頷くと、それぞれが深い深いため息を吐いた。
「帰ろ帰ろ」
「やってらんねえぜ」
「あー心配して損した!」
 ひとの恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られてなんとやら。
 思い思いに引き上げながら、疲労しきった彼らは心底実感していた。


※イワンにかけられた能力の元ネタはサトラレです。ドラマや原作などは見たことがないので、想像で書いています。


(07.11.12)


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