、あるいは独白


 ブーツの底は硬く、階段を昇るたびに金属音を上げる。カツン、カツン、規則正しい足音。金属製の扉を押し開くと、気圧差のためにびゅうっと風が鳴る。押した瞬間は重かった扉が滑らかに開き、吹き抜ける風によって裾が揺れる。コンクリートの地面を歩く靴音はややくぐもった音に変化し、規則正しさだけは変わらずに前進する。
 ポセイドンラインの屋上、高く聳えるビルの縁に脚をかける。眼下に燦然と煌めくシュテルンビルトを臨み、スカイハイのヒーロースーツを纏ったキース・グッドマンがそこに立っている。
 彼はヒーロースーツを着てはいるものの、マスクを両手に持ち、彼自身の素顔でもって銀色に鈍く輝く偶像を見つめている。
「やあ、スカイハイ。今日もわたしはキース・グッドマンだったよ」
 ヒーローでもなく、一般市民でもないキースは偶像に語り掛ける。彼自身の境界が最も揺らぐ瞬間がそこにある。差し詰め今の自分は怪物なのではないか。自覚していない、そんな予感に似た何かを孕み、キースは手の中に捧げ持ったマスクに囁く。
「今夜は君に報告があるんだ。……わたしはね、イワンくんと恋人同士になったんだよ」
 スカイハイを象徴するマスクは彼に何の返答も返さない。それをキースは当然のこととして受け止めている。偶像は語らない。そこに崇高な存在を見出したとしても、偶像そのものはスカイハイの代理でしかない。彼が偶像と同化して初めて、スカイハイはこのシュテルンビルトに具現化される。
「わたしは嬉しい。嬉しいとても。イワンくんのことを、わたしはずっと愛してきた。ずっと、ずっと。君に打ち明けてきた通りに」
 ある種の告解として、キースは目の前の偶像に微笑みかけた。
「わたしはイワンくんのことを誤解していた。それは恥ずべきことだと思う。イワンくんは、彼も、わたしのことを愛してくれているんだ。それが真実なんだよ、スカイハイ。わたしは誤解していたんだ。それが誤解であって良かった」
 沈黙を守る仮面に安堵し、キースはそっとスカイハイの象徴を押し戴いた。彼はその瞬間からスカイハイそのものになる。
「では、行こう」
 夜空を圧倒する煌めきに向かって彼は脚を踏み出す。星々はあたかも朧な反射のように弱々しく光り、巨大な水面を思わせる。上下の感覚を失いながら風に身を任せ、スカイハイが飛び立つ。夜空という水面に向かって墜落するように。


   * * *


「やあ、スカイハイ。今日もわたしはキース・グッドマンだったよ」
 捧げ持ったマスクは街の光を受けて鈍く輝いている。彼はそれをじっと見つめ、語り掛ける。
「わたしはイワンくんと会話したよ。彼はわたしのことを愛していると言ってくれた。彼の手がわたしの頬に触れたんだ。彼の体温は少し低い。指先がざらざらしていて、関節が太いんだ。肌の色が白いから、彼の手首の血管が見えたよ。青白くて、とても綺麗だった、とても」
 マスクは沈黙している。それを空中に据え置くように持ち、キースは嬉しそうに微笑んだ。
「わたしはイワンくんを愛している。愛しているんだ、本当に。彼がわたしを見てくれるだけで、なんて幸せなんだろう」
 それは答えを返さない。相槌を打つこともない。キースは自分の手の中にある偶像をそっと撫でる。
「やはりわたしが考えていたことは懸念でしかなかったんだ。そうだろう、スカイハイ。わたしは、わたしであって大丈夫なんだ。わたしのことを愛してくれる人間が居て、そうしてそれがイワンくんであるだなんて、ああ、これがどんなにか幸せなのか、君にも教えてあげたいのだけれども」
 そうして彼はスカイハイになる。コンクリートの巨大な船に似たビルを蹴り、空に飛び上がる。
「では、行こう」


   * * *


「やあ、スカイハイ。今日もわたしはキース・グッドマンだったよ」
 物言わぬ仮面に向かってキースは会釈をして見せる。彼の表情はいつに増して明るく、街の光を浴びる頬は紅潮してすらいる。
「イワンくんと、キスをしたんだ。彼はわたしにくちづけてくれたよ。彼の唇は思っていたよりもずっと薄くて、だけど柔らかかった。彼の花びらのような唇! わたしがどんなにか彼に触れてみたかったことか、君は想像することができるだろうか。彼はわたしの彼への愛を赦してくれているんだ」
 熱に浮かされたようにキースはマスクへと語り掛ける。銀色をした金属に、彼の声が当たっては霧散していく。それにも構わず、キースは語り続ける。
「緊張するわたしの手の中に、指先を滑り込ませて、目を閉じてくださいと言われた時……あの時わたしは今すぐにでも呼吸が止まってしまうのではないかと思ったよ。それくらい幸せだったんだ。今もまだ唇に彼の感触が残っているように感じられる。わたしは幸せだよ、スカイハイ。とても、とても幸せだ。ああ、わたしはイワンくんを愛している! ……」
 一気に語り切って、キースはようやく自分が少し興奮しすぎていることに気付く。気恥ずかしそうにマスクへと微笑んで見せ、キースは落ち着きを取り戻そうとしばらく沈黙した。
「すまない、少し興奮しすぎたようだね。わたしは今とても浮かれているんだ。今なら空も飛べそうな気がするんだよ、スカイハイ」
 そう言い置いて、彼はスカイハイになる。スカイハイは彼の期待通り夜空へと飛び上がり、風に乗ってひらりと滑空する。
「満足したかい? では、行こう」


   * * *



「やあ、スカイハイ……。わたしは、今日もキース・グッドマンだったよ」
 キースはマスクへと話し掛けた。
 いつも立つ位置には一歩足りないところに、彼は立っている。あと一歩踏み出せば、彼は街の光やサーチライトを受けてその姿を浮かび上がらせるだろう。だが、彼はそうしたりはしなかった。ビルによって光源を遮られた暗がりに立ち、キースはマスクだけを光に晒している。
「今夜は君と話したくないんだ。すまない」
 マスクが暗がりへ引きずり込まれ、代わりにスカイハイが一歩を踏み出す。
「……。では、行こう」



   * * *


「やあ、スカイハイ。わたしは……わたしは、今日もキース・グッドマンだったよ」
 前の夜よりも、キースは更に一歩足りない場所に立っている。彼自身も、そしてその手に抱いたマスクも、暗がりの中に居る。
「黙っていてすまなかった。だけど、あんまりにもつらくて、どうしても言いたくなかったんだ」
 偶像は彼に返答しない。そのシルエットだけが彼の手の中にある。
「イワンくんは、……イワンくんは、わたしを愛していたんじゃなかったんだ。酷い。裏切りだ。彼はわたしの名を呼んで愛していると言ったのに……。いや、彼は裏切っていない。裏切ったのはわたしだ。わたしが彼を騙していたんだ」
 キースは俯き、マスクを抱く手に力を籠める。
「彼はわたしのことを君だと思っていたんだよ、スカイハイ。彼はずっと探していたんだ。わたしのどこかにスカイハイが居ないかって。あの菫色の瞳が、わたしの瞳ではなくて、その奥を探っている、あの不愉快な感覚が君にもわかればいいのに……それがわかってしまって、わたしはどうしたらいいのか見当もつかなくなってしまったんだ。だって、……だってわたしはキースじゃないか! キース・グッドマンでしかない! スカイハイではない、スカイハイではないんだ……」
 泣き声のように、彼の声は震える。わなわなと唇を震わせ、キースは縋るようにマスクを見た。
 沈黙。
 彼の偶像は彼にどんな言葉も齎さない。断罪も、救済も、何も。
「わたしはどうしたらいい……わたしは、イワンくんを愛している、愛しているんだ……彼の手を知ってしまった。唇を知ってしまった。抱き合う体温が、イワンくんのものなんだ。彼の髪から少し汗ばんだ、水際の草原のような匂いがすると知ってしまったんだよ、スカイハイ」
 キースの瞳は一心にマスクを見つめている。彼は何度か唇を開きかけ、喉を震わせては唇を閉じた。
「……わたしは彼を手放せないんだ。彼を愛している。どうしたらいい、スカイハイ。どうしたら……」
 カツ、とブーツの音。スカイハイが一歩を踏み出す。
「どうしたらいいと思う?」
 二歩、三歩、そして空中へ。夜空は深く、その底は見えない。
「では、行こう」


   * * *




「やあ、スカイハイ……。わたしは、今日も……キース・グッドマンだった、よ」




   * * *


「やあ、スカイハイ。……わたしは」
 暗がりの中に立ち、彼は言葉に詰まって唇を閉じた。屋上を吹き抜ける風を感じながら、彼は沈黙する。
 シュテルンビルトの無数の光は星々のようには瞬かない。それでも、空気の揺れによって揺らぐさまをマスクの背後に見て、彼は脚を進めた。
 カツ、カツ、カツ、そして縁に立つ。
 街の光を受けて、彼はマスクを捧げ持つ。
「わたしは、今日、スカイハイだったよ」
 その青い瞳には涙の膜が張り、今にも決壊しそうに潤んでいる。しゃくりあげるように呼吸を繰り返し、彼は胸を震わせている。喉が痙攣するようにひくつく。
 だが、彼はそのまま微笑んだ。
「イワンくんのあの顔……幸せで幸せでたまらない、と彼は言ってくれたんだ。あなたが好きです、愛していますと……」
 回顧するように、彼は目を閉じる。
「わたしの懸念は正解だったんだね。彼はわたしを愛していたんじゃない、スカイハイを愛していたんだ。……だから、今日わたしはスカイハイだったんだよ。それしかなかった。彼のこころが少しずつ、少しずつわたしから離れていくのが感じられたんだ。彼がわたしの中に君を探しては絶望するのを、もう見ていられなかった。わたしは、」
 彼はぽろりと涙を零した。それはたちまち夜の闇に呑み込まれる。
「わたしは、スカイハイだよ、スカイハイ」
 そしてスカイハイはマスクをそっと被った。本来の彼に戻るために。
 シュテルンビルトが何故これほどにまで美しいのか、彼にはずっと想像がつかなかった。守るべき街、彼の街。
 今や、シュテルンビルトとは彼の愛する人間が住まう街でもある。それを守れるのは、キース・グッドマンではない。
「わかってくれて嬉しいよ」
 優しい声が夜空に消えていく。
「さようなら、キース」
 夜空へと落下しながら、スカイハイが囁いた。


(07.06.12)


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