この歳になってまで大の大人がふたりでバスルームを共有するのはどうかと思っていた。自宅に備え付けられたバスルームに足を踏み入れながら、虎徹は複雑な気持ちで頭をかいた。前を歩くキースも彼と同じくなにも身につけていない。同性同士ということもあってか、彼は全く羞恥心というものをおぼえていないようだった。そのあたりがどうも予想外で、逆に虎徹の方がわずかな居心地の悪さを感じている。
 そもそものきっかけは、キースが初めて虎徹の部屋に泊まっていった際に、バスルームに浴槽が備え付けられていることに驚きを示したことに始まる。二人は世間一般で言う恋人同士の関係にあったが、彼が虎徹の家に泊まっていったのはまだ一度きりで、その際もたいして色めいたやりとりがあったわけではなかった。長年のつきあいがあるといってもお互いにヒーローとして知り合った経緯もあり、気付けばつかず離れずの距離を保ったままずるずると関係が続いている。それは恋人とは言わないのではないだろうか、と第三者が見たならそうコメントもしただろうが、二人はこの関係を大っぴらには公言していなかったので、結果としては誰からもそういった苦言めいた言葉を寄せられたことがなかった。
 同じヒーローとしてはたらき、時間ができればそれを共有し、時折キスを交わす。その程度の関係は虎徹に安心感を与えていたし、また、性的にはあまり積極的でもないキースもそれで充分に満足している様子だった。
「ワイルド君、お先にシャワーを借りるよ」
 明らかにわくわくした表情のキースが振り向いて、虎徹は軽く頷きを返した。こういうときの彼は大きな子供のようだ。
「湯は張ってあるから、さっさと浴びてさっさと入れよ」
 キースが先なのは、彼が非常に手早くシャワーを浴びるからだ。過密なスケジュールに追われる生活を送っていると、こういった部分で時間を節約する必要が出てくるのだろう。虎徹自身も忙しい時にはシャワーで済ませることも多かったが、時間の余裕があれば浴槽に浸かることにしている。オリエンタル式の考え方ではあるが、たっぷりの湯に身体を浸した方が疲れは抜けやすい。そのためにわざわざ浴槽のある部屋を探したのも懐かしい思い出だ。
 だから、キースが虎徹の部屋の浴槽に驚きを示した時、虎徹は彼に提案してやったのだ。今度入っていけよ。そう言った裏には下心もなにもなく、単純に恋人の身体をいたわる意図があった。まさか一緒に入る羽目になるとは思わなかったが、慣れないキースが湯あたりしてもいけないので、選択としては間違っていないはずだった。
 キースがシャワーを使っている間に手すさびになった虎徹は、自分も浴槽から湯をすくって軽く浴びた。石鹸を泡立てながら、浴槽のふちに腰掛けて彼の姿を眺める。虎徹よりもわずかに身長が低いとはいえ、キースの身体は日々のトレーニングにより鍛え上げられ、充分な筋肉をつけていた。若く張りのある肌をシャワーの湯が連なって流れていく。健康的であるのに、ある種羞恥心を煽られるような気もして、虎徹は唐突な気まずさを覚えてふいと彼から目を背けた。必要以上に力を入れてごしごしと肌を擦る。
「お待たせ! そして、お待たせしたよ、ワイルド君!」
 顔を上げるとシャワーでまずはさっぱりしたキースが満面の笑みで仁王立ちしている。本人は全く意識していないのだろうが、身体の全面を思い切り虎徹に向けて晒していた。途方もない居心地の悪さに一瞬言葉を失ってから、虎徹は半目になって背後の浴槽を指差した。
「わかったわかった。先に浴槽に浸かってろ」
「そうだね! そうしよう!」
「ゆっくり入れよ」
 嬉しそうに近寄ってきたキースが、そのまま勢いよく入ろうとするのを見越して釘を指す。ぴたりと動きを止めた彼は、ちょっと虎徹を見て、浴槽を見て、それから小さく頷いた。そろそろと片足ずつ入り、浴槽のど真ん中に立ってからまた虎徹を見る。
「そのまま座れ。ゆっくりな。案外滑るから」
「わかったよワイルド君。気をつけよう」
 至極真面目な顔をしたキースが老人もかくやという速度で腰を下ろしていく姿を思わずまじまじと眺めてから、虎徹はシャワーがまだ出しっぱなしだったことを思い出してそちらに向き直った。自分も手早くシャワーを済ませ、浴槽のど真ん中に陣取っていたキースをどかして一緒に入る。目を離した隙に何か起こらないように、ちょうど半身浴になる程度の湯をためてあったのだが、少し過保護だっただろうか。湯を追加しながら、ちゃぽちゃぽと水面を波立てているキースを見やった。いや、やっぱり過保護なくらいがいいかもしれない。
「湯加減はどうだ?」
「うん、ちょうどいいくらいだ」
「そうか」
 幾ら広めの浴槽であるとはいえ、体格のいいキースと二人で浸かるとそれだけで狭苦しく感じられる。まあ今回だけだからと自分に言い聞かせて、虎徹は浴槽の縁に肘をついた。湯をすくって遊ぶキースが楽しそうだからいいものの、入浴剤もなにもなしのただの湯である。水面を透かしてお互いの裸身が完全に見えるこの状態は、幾ら恋人同士だからといっても何となく気まずい。
 ふと、キースが表情を改めて虎徹を見た。
「……君とフロに入れて嬉しいよ、ワイルド君」
「……そうか。よかったな」
「そうなんだ。嬉しい、そして嬉しいんだ、ワイルド君」
 こういう時のキースの表情は、何と言えばいいのだろうか。望みもしなかった幸福を与えられたとでも言うような、空一面の朝焼けを見上げるような、淡い笑顔。普段の快活な様子とはまた違っていて、この顔を向けられているのが自分だけであると直感的に気付かされる。虎徹は眩しげに目を細め、彼から視線を外した。
「あー、その、なんだ。……俺もお前と風呂に入るのがそんなに悪くないような気がしてきた」
 途轍もない照れくささに襲われて、虎徹はぼそぼそっと早口でそれだけ呟く。えっ、と聞き逃したらしいキースが声をあげようとするのと同時に、虎徹は手を湯に沈めて水鉄砲を彼の顔面に食らわせた。
「ワイルド君、今なんと……ぶっ! うわっ!」
 水を滴らせながら目を白黒させるキースを見て声を上げて笑う。驚きに固まっていたキースは、腹を抱えて笑い転げる虎徹をしばらく凝視していたが、やがて同じように笑いだすと勢いよく湯をかけ返した。
「ぶわっ! この、やるじゃねぇか……!」
「君が始めたんだから、反撃があって当然だと……うぶっ!」
 湯の掛け合いはしばらく続き、やがて二人が笑いつかれた頃に戦いは終結した。お互いに髪からぼたぼたと水を滴らせ、どちらが勝ってどちらが負けたのかわからない状態だ。
「あー疲れたー」
「楽しかったよ! そして、楽しかった!」
 笑顔のキースに対して虎徹は疲労困憊である。ヒートアップしているうちに体温がだいぶ上がったようで、虎徹はよっこらせ、とわざとらしい掛け声と共に浴槽から腰をあげた。風呂に浸かるのは好きだが、自分が湯あたりしやすいことは自覚している。
「もう出てしまうのかい?」
「いや、ちょっとシャワー浴びたい。お前は大丈夫か? 湯あたりしてないか?」
「ふむ。わたしは問題ないよ。……それよりワイルド君、だいぶお湯を足したからもう潜れそうだね」
「湯あたりしないんだったら好きなだけ潜ってろ」
 先ほどの水かけ合戦で湯の温度そのものはだいぶ下がっているので、心配は要らないだろう。顔にかかる髪を払いながら、虎徹はキースに背中を向ける形で温度を下げたシャワーを浴びた。すこし冷たく感じられる程度のシャワーで、火照った身体が冷やされるのが心地いい。ひとしきりそうやって体温を調整してから、虎徹はふとキースに話しかけようとして彼の名前を呼んだ。
「なあ、スカイハイ。……キース?」
 だが返事はない。きゅ、とシャワーを止め、虎徹は改めて浴槽を見やった。キースの姿が見えないので、潜っているのだろうか。
「おいおい、ほんとに湯あたりするぞ……」
 ひょいと覗き込んだ先、そこにキースが居た。
 浴槽の底に仰向けに横たわる形で、彼は青いひとみを見開いてじっと虎徹を見つめている。柔らかな金髪がふわりと広がっている。水という壁をとおして、キースの姿がゆらゆらと揺れた。じわりと唇が笑みの形に変わり、そして恐らく虎徹の名前を呼んで動いた。
 こ、て、つ、く、ん。
 こぽ、とキースの唇からいくつか気泡がこぼれて水面に浮かび上がってくる。それに引き寄せられるようにして、虎徹は浴槽のふちに手をかけて自らも湯の中にもぐった。ふたりの唇が重ねられる。開かれたままのキースの目がわずかに細められて、うっとりと虎徹を見つめた。
 ああ、俺はこいつが好きだ。
 たまらなく実感しながら、キースもまた同じことを考えているであろうことを虎徹は確信していた。


(10.25.11)


戻る