Under My Umbrella


 冬の雨に窓ガラスが曇る。外気温は随分と低くなっているのだろう、室内との温度差に白く濁った窓越しに街並みを眺めて、キースは無言でいた。通り過ぎていく車のヘッドライトや赤く点る信号の光が曇ったガラスを通してぼんやりとした光芒になる。
 キースは傘を持っていた。雨が降るという予報はなかったが、風を扱う彼は天候の変化には敏感だった。
 自宅に何本もたまったビニール傘は、どれも彼自身が購入したものではない。これも勝手に他人の私物を持ち出したことになるのだろうか。そう考えながら手にとったのはいつもの紺色の傘ではなく、チープなつくりの透明なビニール傘だった。虎徹が何度も買っては置いていった傘は全て柄と紐の部分が黒いもので、そんなところに彼の好みを見出してキースは改めて彼を思った。
 待ち合わせの喫茶店には、雨を厭ってか多くの人が訪れていた。大きな手帳とカラフルに装飾された携帯電話を広げて何か相談しあっている女子高生や、アイスコーヒーを放置したままテーブルに突っ伏して寝ている女性、携帯電話を眺めながら煙草をふかしている会社員。様々な人々が傘を持っており、キースはそれをひとつひとつ観察した。
 ざわめく店内には人々の話し声が溢れている。それぞれの人々にはそれぞれの人生があるのだろう。その中で独りたたずむキースの前で、コーヒーだけがゆっくりと冷えて脂を浮かせていく。
 キースは虎徹を恋人だと思っていた。彼らは一般的に言うような恋人らしい交際の仕方をしてはいなかったし、お互いの忙しさもあって満足に時間を共有できてはいなかったが、それでもキースにとって虎徹は恋人以外の何ものでもなかった。虎徹は暇があればキースの自宅を訪れてくれたし、夜のパトロールから戻った時に自宅の窓にあかりが灯っているだけでキースは幸福になることができた。
 だが、それも全て今日で過去形になる。
 ざわめく喫茶店でキースは虎徹を待っていた。そして、同時に彼が姿を見せないことを望んでもいた。相反する感情を扱いかねてキースは途方に暮れて窓の外を見遣る。きらきらと輝く街の光、流れていく傘の群れ。胸が押さえつけられるように苦しくなり、キースは視線を伏せて金色の睫を店内の照明にさらした。
 何度目かに喫茶店の扉が開く音がして、キースはゆっくりと伏せられていた視線を上げた。また傘を忘れていたのだろう、髪の先から水滴を滴らせて、彼が待っていた男が姿を現していた。どこか絶望的な笑顔でキースは男に向かって手を挙げて見せる。
「……悪いな、待たせちまって」
 肩の水滴を払いながら、虎徹がキースの向かいの席に腰掛けた。音もなく現れたウェイトレスにコーヒーを注文する。すいと彼の視線がキースの前にあるカップに向けられ、虎徹はコーヒーの数を二つに訂正した。
 頷いて立ち去っていくウェイトレスの後ろ姿に視線をやったキースは、目の前の男を直視できなくてそのまま自分のコーヒーカップを見つめた。虎徹が見せたさりげない優しさは、こういう時にキースの胸を締め付ける。現実的でもある彼は、根本的には優しい男だった。少し、優しすぎただけだ。
 二人はしばらく沈黙したままコーヒーが運ばれてくるのを待った。虎徹の髪から滴がぽたりとテーブルに滴っていびつな円を描く。先ほどのウェイトレスが二人分のカップをテーブルに置いていき、虎徹はコーヒーには一切口をつけずにキースの名前を呼んだ。
「もう解ってるかもしれないが、お前にはちゃんと言いたかった」
「……うん。……解っているよ」
 キースは最大限の努力でもって顔を上げ、虎徹を見た。彼は笑いもせず、真摯な表情でじっとキースを見つめていた。虎徹の襟のラインがわずかに本来のものとはずれているのを見つける。キースはシャツのプレスが得意ではなくて、いつも適切なラインから少しずれた仕上がりになってしまう。それでも、虎徹は毎回文句ひとつ言わずに袖を通していた。
 ああ、わたしは彼が好きなんだ。たまらなく実感してキースはぎこちなく微笑んだ。何度彼に恋すれば終わるのだろうか。それでも、キースにとって自分自身の感情よりも虎徹が大切だった。彼が望むのであれば、その望みを叶えたい。それで彼が幸せになるのなら。
 虎徹にとっては、キースよりも、彼の持つ常識の方が少しだけ大切だったのだ。それなら、仕方がない。そう自分を納得させられるほどに、キースは虎徹の逡巡を見続けてきていた。だからキースは先に口を開いた。
「……別れよう、虎徹君」
 二人が付き合っているのかどうか、ということをはっきりさせたことはこれまでなかった。虎徹から好きだという言葉を明確に貰ったこともなかったし、付き合おうといって関係を始めたわけでもなかった。だが、その言葉を選んだのは、せめて二人の過去を何らかの形に残したかったからだった。自分と虎徹の間に何の感情的な繋がりもなかったとは思いたくなかった。
 キースは虎徹のことが好きだった。雨の日にビニール傘をさして訪れる男を、晴れの日には紙袋いっぱいに買い込んだビールを持って悪戯っぽく笑う男を、キースはいつでも待っていた。時にキースは彼の友人であり、同僚であり、そして恋人であった。二人の関係に明確な名前はついていなかったが、それで彼は満足していた。ただ彼の傍に居たかった。
「ああ。別れよう、キース」
 彼の気持ちを汲んで頷いてくれる虎徹が、好きだった。
 キースはたまらない気持ちでひたすら微笑んだ。本当は大声を上げて泣き喚きたかった。君が好きだ。嫌だ。悲しい。寂しい。好きなんだ、君が。
 共にしたベッドで好きだと囁くたびに、頷きだけを返してくれる狡い男が好きだった。
 ただ、好きだった。
「ひとは……」
 キースは声を失いそうになりながら小さく呟いた。
「人は死んだら、鳥になるんだよ、虎徹君」
 虎徹は黙ったままキースを見ていた。唇をわななかせ、青ざめたまま何とか微笑もうと努力し続ける彼を。
「……この気持ちも、鳥になってくれるだろうか」
 キースが口にできる言葉はもう、これしか残されていなかった。ほかのどんな言葉を使っても虎徹を引き留めることができないことは解っていた。
 今日が終われば虎徹はもうキースの部屋を訪れることはないだろう。いつもフライパンを使う虎徹に勝手がいいようにキースがこっそり買っておいた中華鍋を扱うこともないし、冷蔵庫の中のビールを飲むこともない。彼が観たいと口にしていた映画のディスクも、開封されることはないだろう。
 窓の外で降りしきる冬の雨は、暖かな室内に居るはずのキースの心から温度を奪っていく。
「……そうだな。きっと鳥になってくれる」
 キースは細く長く吐息をついた。涙はこぼれなかった。すっかり冷えきった二人分のコーヒーからはもう何の香りもしない。
「外は雨だよ、ワイルド君」
 自分の分の代金をテーブルに置くと、キースは静かに席を立って虎徹に傘を差しだした。
「そして、これは君の忘れ物だ」
 虎徹の手がビニール傘を受け取る。彼の指先はキースの手に触れることはなく、キースは黙って傘から手を離した。
 別れの言葉は口にしなかった。
 喫茶店の扉を押し開けると、ドアベルがちりんと音を立てた。外では雨が降りしきっていて、キースは一切振り返ることなくその中を歩き出した。雨が降り始めてから大分時間が経っており、道行く人々が傘を差さない彼をちらりと見ては視線を外して歩き去っていく。
 キースは街頭のスタンドに立ち寄ると、ポケットの小銭を取り出して、初めて傘を購入した。
 広げたビニール傘に空からの水滴が次々と滴る。たちまち曇っていく傘越しに暗く雲の立ちこめる空を見上げて、キースはようやく涙がその青い双眸から溢れることを許した。
 傘の内側に降る雨は温かく、キースはいつまでも滲んだ空に自分の鳥を探し続けた。


(10.06.11)


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