高きミン


 騎士道、という言葉が似合う。風の魔術師、もとキングオブヒーローの、彼にはその響きが不思議としっくりくる。
 イワンはあまりヒーローとしての順位にこだわらない。ランキングが表示される、その中の最下位でも構わない。それはスポンサーに求められていないということもさることながら、ポイントというものにあまり執着を感じていないことを自覚している。見切れ職人であり、最終的に人命救助や犯人逮捕などの目的さえ達成できるのならそれを遂行するのが自分でなくても構わないとも考えている。そんなイワンを、キースが時々眩しそうな目で見ていることに、彼は気づいていた。
 もとキングオブヒーロー。彼は彼の理念に関わらず、否応なしに順位を気にしなければならないのだろう。スポンサーの期待、所属するポセイドンラインからの期待、そして市民からの期待。そんなものに駒同然に動かされて、時折彼は自分自身をなにかからくり人形のように無力に感じたりはしないのだろうか。糸引く思惑にがんじがらめにされて、彼はそれでも墜落することなく何とか空を飛んでいる。
 例えば言葉を交わすとき、視線がぶつかり合ったとき、イワンはキースの気持ちを感じる。キースにとってのイワンとは何なのだろう。自由に見えるのだろうか。縛られることもない代わりに地を這いながら、それでも解き放たれて見えるのだろうか。知りたいと思う反面、イワンは永遠にそれを知る機会が訪れなくてもいいとも思っている。釣り合う釣り合わないという問題ではない。彼と、自分は、根本的に見ているものが違う。
 例えばキースは、イワンには肉欲を感じていない。思い込みではなく、これまで人々の動きや考えを予測して動くために観察し続けてきたイワンには確証を持って言えることだった。遠くからただ想いを秘めたひとみで見つめるだけの、騎士の愛。それは叙情歌のミンネのようではないだろうか。手の届かない相手への恋慕で自己を高める、それは彼にはお似合いだと思うけれども。
 だが、それでは足りない。そんな、自己満足のような愛情では、足りない。


 イワンがキースの家に招かれるようになったのは、彼が些細ながら途方もない努力を重ねた末のものであった。会話を少しずつ増やすところから始まり、タイミングを見計らって一緒に食事をとり、休日に顔を合わせ、不自然ではない程度に距離を縮めていく作業は、イワンにはさほど苦ではなかった。すっかりイワンに心を許したキースが犬を飼っているという話を聞いて、まずは休日の犬の散歩につきあってやってから、イワンはそれを口実にキースの自宅を訪れていた。
「やっぱり可愛いですね」
「そうだろう、わたしの一番の友人なんだ」
 イワンの言葉に笑顔で頷くキースも、思惑に全く気づかずにイワンの頬を舐める犬も、どうしてこれほどまでに疑うことを知らないのだろうか。キースの自宅の庭で、ふわふわとした犬の背中を撫でる。
 陽射しは明るく、庭の緑は青々と輝いている。茶番だ、と思いながらイワンはにっこり微笑んだ。自分の笑顔がどう見えているのか、イワンは知っている。
「ええ、とても可愛いです。……しかし今日は暑いですね。そろそろ室内の冷房が恋しくなってきました」
「ああ、今日は暑いから、熱中症になったりしてはいけないね。……ジョン、そろそろイワン君を離してやってくれないかな。わたしたちは中で涼んでくるから、君は小屋でおとなしくしておいで」
 ワン、と小さく吠えて、犬が尾を振りながら自分の小屋に引き返す。綺麗に刈り揃えられた芝生の庭。これはキースにとってはひとつの幸福の形であるのだろうか。
「よく言うことを聞く、いい子ですね」
「ありがとう! そして、ありがとう! 君に彼を気に入って貰えて本当に嬉しい」
 大切にしている一家の一員を褒められて嬉しくない人間などいないだろう。ましてやそれが恋している相手ならなおさら。イワンはそれを知りながら犬の後ろ姿を見送った。ふわふわと尾がたのしげに振られる。
 キースは一人暮らしで、家族と言えば犬のジョンだけである。どういった事情で家族と離れて暮らしているのか、家族がいないのか、それは訊いていないのでイワンは知らないし、そこまでは興味もなかった。イワン自身、家族の事情について細々と詮索されたくはない。ただ、この家にキース以外の家人が居ないのは好都合だった。
「よかったらあがってくれないか。お隣のお嬢さんからお裾分けされたレモネードがあるんだ」
「お隣は女性が住んでらっしゃるんですか?」
 イワンが訊くと、キースは愉快そうに片目を閉じる。
「そう、素敵なレディだよ。来年エレメンタリ・スクールにあがるそうだ」
「ああ、それは将来が楽しみですね」
 内心どこかでほっとしつつ、イワンは頷いた。キースの快活な性格もあってか、彼はスカイハイとしてではなくとも子供たちに人気が高い。プライベートでは引きこもりがちな自分とはたいした差だ。出されたレモネードを飲みながら、キースとイワンは取るに足らないような話をした。最近キースはイワンと食事に行くのが楽しいらしく、また新しい店を見つけたからそこに二人で行きたいと提案してきた。イワンに紹介された和食が美味しかったので、ほかの店にも挑戦しようと行ったレストランが和食ではなく中華料理だったこと、久しぶりに休みが取れた日に公園で子供たちと遊んだこと。イワンはいちいち相槌をうちながらずっとキースを見つめていた。
 昼の陽射しに照らされて、キースが大きく身振りするたびに金髪がきらきらと光る。話に熱中するキースの頬が上気している。楽しそうだな、と他人事のように思いながら、イワンはずっと笑顔でいた。
 やがて、眩しいほどだった外もだいぶ暗くなり、キースは時間を忘れてしまったお詫びにイワンを夕食に誘った。少し考える様子を見せてから、イワンは遠慮がちに本当に構わないのかと問い返した。ほんとうに、いいんですか。
 キースが当然だと笑顔で頷いたので、イワンはいつか機会があったらと思っていた夜を、今夜にすることに決めた。
 彼に振る舞われた手料理は凝っているとはいいがたかったが、シンプルで美味しかった。手伝いますよと声を掛け、キッチンに並んで立つと時間はあっと言う間に過ぎていき、二人は食事を楽しんでから再度キッチンに並んで食器を洗った。手を拭いながらキースがコーヒーを淹れようかと提案し、イワンはご馳走になったお礼に自分が淹れると宣言してキースをテーブルに戻らせた。丁寧にコーヒーを淹れる間、キースが嬉しそうにこちらを見ている視線を感じながらイワンは一度も振り返らなかった。
 しばらくして、湯気を上げるコーヒーを手に、イワンはキースの隣に腰掛けた。はい、どうぞ。まっくろな液体が室内の照明を反射してたぷんと波打つ。キースはマグカップを両手で覆うようにして持ち、礼を述べてから口をつけた。
 次にキースが気づいた時、彼はベッドに横たわっていた。すこし頭が重い。まさかコーヒーを飲みながら眠ってしまったのだろうか。最近は忙しかったとは言え、来客があるときに眠ってしまうほど疲れていたとは思えないのだが。イワンはキースが目をしばたたかせながら額を押さえる姿を見て、おおよそ彼が考えているであろうことを予測していた。次に彼なら自分の姿を認めて謝罪するだろう。
「ああ、……すまない、イワン君。わたしはどうやら少し疲れがたまっていたみたいだね……みっともないところを見せてしまったのかな」
 案の定疑うことを知らないキースは、イワンが想像した通りにすまなそうな表情で謝罪した。今頃彼の頭は痛みを訴えているだろうに、泣き言を口にしないところは果たして美点なのか欠点なのか。イワンはことさらにっこりと笑顔を浮かべた。
「いいんですよ、気にしないでください。……薬がよく効いたようでよかったです」
「くすり?」
 不思議そうに問い返すキースの肩をそっと押して再びベッドに横たわらせる。優しげな仕草に自然と従いかけたキースは、むき出しの皮膚に触れられて、驚いたように軽く身を震わせた。
「え……?」
「服なら脱がせておきましたよ」
「あ、もしかして、」
「いえ、キースさんがなにか汚してしまったわけではないんです」
 言いながらイワンはいつも着ているジャケットをそっと脱いでベッドサイドへ置いた。キースの思考を先回りしながら、優しく優しく笑いかける。
「ひとのつくった飲み物をのんではいけませんって、子供のころに教わりませんでしたか」
 キースの体を冷やさないようにかけていたシーツを丁寧な手つきでめくる。キースの身につけていたものは全て脱がせてある。
「ほんの短時間眠くなってから、体にちょっと力が入りにくくなるだけです。効果が薄い分、副作用の心配もほとんどありませんから安心してください」
「イワン、君……?」
 イワンは薄く笑みを浮かべてキースに覆い被さった。
「いつも色々教えていただいているお礼に、今夜は僕が教えてあげますよ。あなたに」
 指先で撫でた金髪は、思っていたよりも柔らかかった。

 イワンは敢えてキースの性器には触れなかった。彼にはあまり性的な知識はないだろうと推測していたのもあるが、性器を避けることによって実際にキースはイワンが何をしようとしているのか、いまいち把握し切れていないようだった。それはそうだろう。まさか仕事仲間に無体を働かれるとは普通考えない。それが疑うことを知らないキースなら、なおさら。
 唇を除く全身にくちづけながら、イワンはキースにとりとめもない質問をした。NEXT能力に目覚めたのは何歳のときでしたか。ヒーローとして活動する上の、あなたの理念はなんですか。きらいな食べ物はありますか。問われる度にキースはイワンの行動に不安を滲ませながらも律儀にいちいち返事をした。
 イワンは薄く刷いた笑顔を崩さないまま、持参したボトルからローションを手に取って体温であたためた。キースが不安げにそれは何なのか問う。こたえないまま、イワンは生温く濡れた指先でキースの体内に触れた。
「ひっ……」
 全身を硬く竦ませたキースの前髪をそっと左手でよけ、額に口づける。さっきから意味のない質問ばかりして核心にはいっさい触れないイワンの意図をはかりかねて、キースが青いひとみに涙をじわりと滲ませる。
「ああ、泣かないでください」
 イワンはキースを慰めるように目尻に小さくキスを落とした。
「イワン君、君は、なにを……」
「しぃーっ」
 ローションで湿った指先をキースの震える唇に当て、イワンはわずかに目を細めた。言われるがままに言葉を途切れさせたキースの体内をゆっくりと探る。最初は丁寧に。それから、徐々にふかく。絡みつくなかを押し開くようにひらいていくと、その度にキースは無防備にひらかれた内股を緊張させ、また言葉を失った唇をわななかせた。
 ああ、おもしろい。ほんとうに、おもしろい。
 丁寧に丁寧に開かせていく作業を続けながら、ふとイワンは渇きをおぼえて唇を舐めた。指の本数を増やすと、指の隙間からぐちゅぐちゅと音が鳴る。キースはそれらにもいちいち体を震わせて戸惑っていたが、やがてある程度馴染んできたのだろう。おそれとは違う感覚をおぼえたのか、無意識に腰をよじるキースの反応を、イワンは見落とさなかった。ずっとキースの青い瞳を見つめ続けながら、だんだんと頬が上気してくる様子をイワンはひたすら観察し続ける。合間に自らの衣類も脱ぎ去ったが、徐々に上がる熱に翻弄されて、気づく余裕もないようだった。
「ねえ、キースさん。僕が今なにをしているか、わかりますか」
「っ……! くぅ……わ、わから、ない……」
 徐々に浅くなる呼吸を何とか制御しようとしながら、キースは縋るまなざしでイワンを見上げた。ここまでされておきながら、彼には推測もつかないのか。吹き出しそうになるのをこらえて、イワンは褒めるようにキースの頭を撫でた。
「素直なのはいいことですね。じゃあ答えを教えてあげますね」
 散々広げ擦りあげたそこからゆっくりと指を抜いて、イワンはキースの耳元に唇を寄せた。吐息と一緒に、ごくごく穏やかな声でささやく。
「あなたを犯そうと思って」
 言いざま、イワンはキースの体内に性器を押し込んだ。指で何度も道をつけた通りに滑り込ませる。
「ぐっ……! ううっ……!」
 キースは驚きの声すら上げられず、涙でくもったひとみを見開いてただイワンを見つめた。何か言おうとして唇を開閉させるが、その度にイワンの突き上げる動きに押されて言葉にならない呼吸だけがキースの喉を震わせる。
「ああ、暖かいですね」
 イワンは笑顔を保ったままキースの頬を宥めるように撫でた。瞬きを忘れたようにイワンを凝視するひとみの焦点が、深く突き込む度にぼやける。とうとう性器を根元まで呑み込ませて、イワンはキースの唇に自らの唇を寄せた。
「これ、レイプっていうんですよ」
 ね、わかりましたか? 薄く開かれた咥内に吐息を注ぐように囁いてから、唇をゆっくりと重ねる。ゆったりと抜いてまたふかくもぐりこむ動きを始めると、キースの両目に張っていた涙の膜が決壊したかのようにぼろぼろと滴がこぼれた。内部を抉るごとにキースの舌がびくりとわななく。
 指で探っていたときの反応から、彼が体内の刺激に快感を得られるタイプであることをイワンは知っていた。ゆるやかな抜き差しで痙攣し絡みつく肉を押し広げる。キースがどう思っているのかは知らないが、彼の意志とは関係なく、彼の肉体はイワンを受け入れていた。まだ一度も触れられていない彼の性器を見るだけでわかる。キースの頬は真っ赤になっており、浅い呼吸と共に殺しきれない嬌声がこぼれている。
「ねえ、きもちいいですか」
 問いかけるが、虚空を見つめる彼のひとみからは涙が滴るばかりだ。イワンは一旦動きを抑え、十分に時間をかけてずるずると性器を引き抜いた。抜け落ちるギリギリまで引いて、動きを止める。それまでされるがままに揺すぶられていたキースが我に返ったようにイワンを見る。ようやく視線が合った。
「イ……イワン、くん、」
「見ましたよ、昨日のHero TV。先週の活躍すごかったですね。スカイハイさんのファンの子たちのインタビューがとても印象的でした。ヒーローカードを大切に握りしめて一生懸命スカイハイさんを褒めるの、可愛かったです」
 いつものように感想を述べてやると、キースはぶるぶると唇を震わせた。彼はスカイハイである以前にキース・グッドマンという男であるはずだが、どうやら彼はそうは思っていないようだ。自分自身を取り戻して、キースは青い目をますます蒼くひからせた。NEXT能力を発動させようとしているのだろう、汗で額にはりついていた金髪がふわりと浮く。彼から吹き上げる風がイワンの身体を押し返そうとして唸りをあげた。
「イワン君、っきみは……!」
 してはいけないことをしている。そんなことはわかっている。吹き付ける風に手加減を感じ取って、イワンは剃刀のように薄く微笑んだ。風は彼の迷いを如実に映し出している。普段の彼の力ならイワンを吹き飛ばして意識を失わせることなど容易いはずだ。
「僕に能力を使うんですか。今の僕は一般市民ですよ、ヒーローでもなんでもない。あなたは、僕にNEXT能力を使うんですか? セックスの最中に?」
「これは、合意じゃ、ない」
 はっとしたように風を収めたものの、キースは歯を食いしばってイワンを睨み上げる。体内に男性器を咥えこんだままだと考えるとそれは滑稽だった。
「ああそうでしたね、忘れていました。これ、レイプでしたよね。……でも、ほんとうに? 合意じゃないんですか? まったく?」
「んあっあっあぅ……!」
 ほとんど抜けそうだった性器を再び奥へと押し込めると、キースの唇を割って普段からは想像もつかないような声があがった。彼の背筋が反り、粘膜がイワンの性器にきつく絡みつく。イワンは好きなだけなかを擦り上げた。ぐじゅぐじゅと音があがる。
「いや、だ……! や、やめ……んんっ、あ、あ、」
 キースの手がイワンの腕を掴む。ぎりぎりと力をこめられて苦痛の声をあげそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えた。薬で力が入りにくくなっているとはいえ、キースの基礎体力はイワンとは大幅に違う。だが、彼の指先はイワンの腕に食い込むばかりで、押し返そうとしているのか縋ろうとしているのかは判別がつかない。彼自身どうすればいいのか決断できないのだろう。彼を縛っているものは、おそらく情だ。
「ほんとうに嫌なんですか? これは僕にとってはレイプですけど、キースさんにとってはどうなんでしょうね」
「な……にを」
「知ってましたよ」
 何を、とは言わずにじっとキースの瞳をのぞき込む。知ってましたよ。キースさん、僕のことが好きなんですよね。
 イワンがあえて口にしなかった内容を察してキースは頬にますます血をのぼらせた。怒りに止まりかけていた涙がまた溢れる。
「そん、な……ふあっ、う、ぐ」
 感情をコントロールする術を失ってキースはとうとう泣きじゃくった。いい年をした男が自分の下で泣くのが愉快で堪らない。元キングオブヒーロー、全ての頂点に立っていた男を、万年最下位の自分が組み敷いて好き放題している。気にしてはいないと言っても、世間はずっとそうやってキースとイワンを比較し続けてきていた。それを、覆す悦び。自分の中の最も薄暗い部分が満たされるようで、イワンは殊更優しくキースに何度もくちづけた。
「大丈夫。ね、気持ちいいでしょう? ……安心してください、僕もあなたが好きですよ」
 今更言ったところでキースの耳に入っているかどうか。イワンは構わずキースの身体を使って自らの肉欲を満たした。じゅぽじゅぽと音をさせながら引きつる粘膜を抉る。泣き声と嬌声が入り交じったキースの声をききながら、イワンはうっとりと目を細めて彼の内部に精液をぶちまけた。
「ひっ……!」
 何をされたのかわかっていない顔でキースがイワンを見た。ゆったりと腰を前後させ、びくびくと痙攣する体内に精液を出し尽くす。満足しきってから、イワンはこれまで一度も触れられることのなかったキースの性器を掴んでしごきあげた。放置されている間にそれでも濡れそぼっていた彼の性器は、ようやく訪れた刺激に追い上げられ、待ち詫びてでもいたかのように震えた。
「あっ、あ、んうっ、く、ああっ……!」
 キースの内股と腹筋が痙攣する。射精のタイミングに合わせて自らの性器を引き抜くと、キースは体内からイワンの精液をごぽごぽとこぼした。
「あ……あぁ……は……」
 放心しきった瞳にイワンの姿が映っているが、焦点はどこにも合っていない。
 イワンは知っていた。キースがイワンに恋をしていたこと。彼は決してその想いをイワンに伝えようとしていなかったこと。永遠に叶うはずがない想いを糧にしてより精神的な高みを目指していたこと。ああ、彼は本当に古えの騎士のように高潔だ。だが、そこにイワンの気持ちが入り込む余地は一切残されていなかった。生身のイワンはミンネゼンガーの中には生きられない。
 だから、こうするしかなかった。こうやって、壊してしまいたくなった。
「あなたが恋していたのは僕じゃない。なにか別の、そう、理想というものだったんですよ。……わかっています。僕はあなたにとって偶像でしかないんです」
 イワンはこの夜初めて微笑みを消し去り、狂おしい想いをこめてキースの唇にそっと自らの唇を重ねた。あなたが好きです。好きなんです。……好き、なのに。
 ひとみを僅かに揺らしたキースがそんなイワンを見つめ、それからゆっくりと瞼を閉じた。
 最後に一滴だけ、涙がそれぞれの頬を伝った。


(08.18.11)


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