キースが思いしてるだけ


 キースの片思いに二番目に気づいたのはネイサン・シーモアだった。もしその時点でネイサン以外にその事実に気づいている人間をネイサンが知っていたなら、早速ウィンクをひとつ投げて「オンナの勘は鋭いのよ!」と豪語したことだろう。もっとも、キースと接する機会の多いヒーロー仲間たちの間で彼の異変に気がついた者はまだいないように見えたので、ネイサンは自分が一番最初に勘付いたのだと思っていた。
 真面目一辺倒で色恋などとは縁がないように見えたミスターヒーローが(恐らく)初恋の味を知ったのはしばらく前のことであった。皆が期待するヒーローのスカイハイではなく、キース・グッドマン本人をそのまま見てくれる女性、と聞いていた。それは素敵なことだと話をきいたネイサンは思っていたし、応援もしていたのだが、どうやらその恋は実ることがなかったようだ。最初のうちは恋愛によって高揚していた彼がだんだんと好きな相手の話題を出さなくなっていく様を、ネイサンはあえてその話題に触れないことで見守るしかできなかった。
 可哀相なキースちゃん。だけど、こんなに明るくて優しい子に振り向かないような子なんて、仮に一緒になったところであなたを幸せにできるとは思えないわ。そしてそれは相手にも言えること。傷ついたかもしれないけど、きっとそれでよかったの。恋の苦しみや悲しみは、いつかあなたが出会う運命の相手に同じ苦しみを味わわせないために学ぶものなのよ。心の中で準備した慰めの言葉も結局役に立たないままだ。
 しかし、彼が新しい恋に踏み出すことができているのなら、そんな台詞など永遠に出番がなくても構わない。前回の苦痛を思い出させてはいけないので、あまり詳しく聞くのも憚られた。どんな相手に恋をしているのか、どういった助言をすればいいのかがわからないのがもどかしいが、ネイサンは今回は黙って彼の恋の行方を見守ることに決めている。
 情緒面ではまだまだ成熟しているとは言い切れないキースだが、こうやって恋を繰り返していくことで、本当の意味で大人になっていくのだろう。一抹の寂しさはあるものの、それは喜ばしいことではある。
(次こそ、次こそはきっと恋を実らせるのよ……!)
 メイクが崩れないように細心の注意を払いながら、ネイサンはそっと指先で目許を拭った。


 実際のところ、イワン・カレリンはキースの片思いを誰よりも早く見抜いていたが、彼自身はまさか自分が一番に発見したとは知らずにいた。彼としては色事についてはあまり得手ではない自覚があったので、自分が気付いたなら他の皆も知っているのかもしれないと考えていたためである。それと言うのもキースが恋をしていた上に失恋してしまったらしいというのを知ったのがつい最近のことで、皆が知っていたのにイワンやアントニオは全くその気配すら感知していなかったのだった。全てが終わってからなにかの拍子に知ったときには、あのキースさんが恋をするなんて(それも、失恋してしまうだなんて!)と大いに驚いたものだ。
 だから、今回についても、周りの誰もがキースの新しい恋を知っているのだろうとイワンは考えていた。どうやら誰もそのことには触れないが、おそらくそれは皆それぞれ考えがあってのことなのだろう。前回はネイサンやカリーナ、パオリンの三人で随分詳しく情報を聞き出していたらしいが、さすがにそれがあんな結果に終わってしまったのでは、下手に手を出してはまずいと考えてもおかしくはない。女性陣ですらそうなら、なおのことイワン自身は口を出すどころか、知っているということすら悟らせてはならないと決意を固めている。
 そもそもイワンが気付いたきっかけというのは、キースが恋をしていたということを全く知らなかった事実に反省をしたからであった。ライバルとして競い合ってはいても、おなじヒーローという職業についている、彼らはいわば仲間である。バーナビー・ブルックスJrの出現をきっかけとして、以前に比べればお互いの仲もだいぶ深まりつつあるように感じられるし、また、ジェイク・マルチネスの事件では皆が一丸となって戦うことで、信頼関係も築けているはずだった。そんな中でのキースの変化に気付かなかったのは完全な注意不足であるとしかイワンには考えられなかった。反省を経て、イワンは仲間たちの、特にキースの動向を注意深く観察するように努めていた。
 キースの変化は、今まで彼個人に対しては注意を払ってこなかったためわかりづらく、イワンは一体彼の何が違うのかが掴めずにしばらく考え続ける羽目になった。最初にイワンが注意を向け始めた頃の彼は、失恋の悲しみを笑顔の裏に隠して皆には悟らせないように努力をしているようだった。キースが恋した女性は赤いものを身に付けていたと聞いている。キースは街を歩いていても、時折ふと人混みに目を凝らしている時があった。イワンが視線の先を追うと、そこには大概赤い服や赤い髪飾りを身に付けた女性の姿があって、ああ彼女を捜してしまっているのだろうなと思ったものだった。また、キースはしばらくの間、公園の噴水前のベンチで花束を抱えて彼女を待ち続けていたようだったが、会えないことに諦めたのか、花束を持参することはなくなった。ただ、やはりベンチで待ち続けていたので、イワンはそんなキースを遠巻きに眺めもしたし、場合によっては偶然を装って挨拶をしたりもした。そういった行為は観察をするという目的からは外れてしまっていたが、しかしキースが時々どうしようもなく落ち込んだ表情を浮かべているのを見ると、声をかけずにはいられないのだった。イワンがキースに声を掛けた当初は、キースも無理矢理微笑みを浮かべるなどして取り繕っていたが、回数を重ねるうちにある程度は気を許してくれたのか、ごく自然な笑顔を見せるようになった。過ぎてしまった恋を取り戻せる可能性など目に見えているのだから、キースには失った恋を忘れて再び元気になってもらうのが最優先だとイワンも考えていた。キースの動向を観察する意図とは全く関係なく彼に遭遇したこともあり、その時キースは愛犬の散歩をしていたのだが、やはり暗い表情を浮かべていたので思わず声をかけてしまった。さすがに彼も驚いた顔をしていたが、すぐに破顔するとアイスクリームが食べたいといってイワンを困らせた(イワンは犬を連れたまま入れるアイスクリーム屋など知らなかったので)。結局どうしてキースが悲しげな表情をしていたのかは解らないままだったが、近くの屋台でアイスクリームを食べ、取るに足らないような雑談に興じたのはイワンにとっても良い思い出になっている。
 そうするうちにキースはどうやらいつしか失恋を乗り越えることができたようだったが、いわゆる平常の状態に戻ったかと思われたキースの様子がおかしいのだった。具体的には、何故か妙にやる気を出してトレーニングに勤しんでいたり、誰も見ていないところでふと微笑んでいたり、あるいはぼんやりと天井を見上げて何かを考えている様子であった。もしかしたら、彼は恋をしているのかもしれない。直感的にそう思ったイワンは、すぐに自分自身の考えを打ち消そうと思ったのだが、しかし彼の様子を見れば見るほどそうとしか思えないのだった。新しい恋に踏み出すことが出来ているのなら、それは喜ばしいことでしかない。そう考えてはみても、今までの彼の一途な様子をずっと見続けてきていたイワンにはどこか納得がいかないのだった。一旦ひとを好きになったのに、その気持ちがこうもあっさりと変わってしまうものなのだろうか。キースはそんな人ではないと思う気持ちと、純粋に彼の幸せを祈る気持ちが交互に訪れてイワンはますます頭を悩ませた。もしかしたら自分はキースに何か間違った理想像を持っていたのかもしれない。彼だって人間なのだから、失恋してたいした時間が経たないうちに新しい恋を見つけてしまったところで仕方がないはずだ。しかし、何度自分にそう言い聞かせても、イワンは自分を上手く納得させることができずにいた。第一、キースが一体誰に恋をしているのかすら解らないのだ。自分がこれだけ彼を見守ってきたのに、いつの間に、そして誰に恋をしていると言うのだろう。キースを見守っているうちに知らず知らずのうちにお互い随分と打ち解けた関係になっていたのも災いした。キースから明るい笑顔でトレーニング帰りの食事に誘われたりすると、イワンとしてもついついイエスと答えてしまう。二人で何も気負わずに食事に出掛けること自体は非常に楽しいのだった。お互いに違うメニューを注文して分け合うことや、変わった食べ物に挑戦して失敗して笑いあうことは、もともとやや後ろ向きで些細なことでもふさぎ込んでしまう癖のあるイワンにとっては幸せ以外の何物でもなかった。だが、キースの新しい恋の存在は、イワンが最近手に入れたこの小さな幸せの上に、無視しきれないほどの影を落としているのだった。


 キースが恋をしている。その事実に三番目に気付いたのは、カリーナでもアントニオでもなく、ホァン・パオリンだった。トレーニングの合間、ふとタオルで汗を拭いながら少し遠い目をしたキースをたまたま見ていたパオリンは、あ、まただ、と思いながら視線を周囲の人々に巡らせる。キースを見てるののはどうやら自分以外だとネイサンだけだった。キースが前回の恋について触れなくなったのできっと上手くいかなかったのだろうと、ネイサンやカリーナは話していたが、パオリンもそれについては同意見だった。あんなに毎日彼女のことを考えたり(自ら進んでではなかったけれども)彼女について話していたのに、その話題を避け始めていることに気付いてからは、パオリンを含む女性陣は極力触れないようにしていた。実際のところ、必要があるならキースから話してきただろうし、傷ついているところを無神経に根ほり葉ほり問い質すわけにもいかないというのがネイサンの意見だったからだ。それに従って、パオリンも何も言わずにいることに決めていた。そのキースの様子だが、しばらくは諦めきれなかったのか意気消沈していた様子だったが、最近再び気分が上向いてきたようで、パオリンは喜んでキースに再び近づいていた。それまでは下手なことを言わないように、少しだけ自分からキースに話しかけることを遠慮していたのだ。
 パオリンはキースをよく見ていた。キースは憧れのキングオブヒーローだっただけではなく、人格的にも明朗で非常に好感の持てる相手だというのが最大の要因だった。だから、彼が再び以前恋していたときと同じ様子を見せていることにもすぐに気がついたのだった。ただ、今回は本人に直接尋ねていいものかどうかが判断できず、それでパオリンはネイサンに相談することにした。
「ねえ、ネイサン」
「なぁに?」
 キースを眺めながら呟くと、同じくキースの様子を気にしていたネイサンは、顔を彼の方に向けたままちらりとパオリンの方を見た。ああ気付いているな、とそれだけでお互いにわかったので、パオリンは具体的なことは言わないことにした。
「……相手は誰かなあ」
「さあ……誰かしら」
 ネイサンが頬に手を当てて小首を傾げるので、パオリンは少し驚いた。ネイサンでさえ相手を知らないなんて。
「もしかして聞いてないの?」
「それがねぇ、聞けないのよぉ。前回がアレだったじゃない? 聞いておいて何の手助けも出来なかったら可哀相だしねぇ」
「そっかぁ」
 ネイサンがそう言うならそうなのだろう。パオリンが頷いていると、後ろからカリーナがやってきた。ひととおりのトレーニングを終わらせてきたのだろう、ボトルのスポーツドリンクを飲みながらひょいと顔を出す。
「どうしたの? 何の話?」
「ミスターヒーローの恋のハ・ナ・シ」
「えっ……」
 途端にカリーナが慌てたように周囲を窺うと、急にヒソヒソと小声になる。
「彼、失恋したんじゃなかったの?」
「うん、そうみたいだね」
 パオリンがあっさり頷くと、カリーナはますます意味が解らないという表情になる。それが面白くてパオリンは小さく含み笑った。カリーナは自分自身が恋をしているものだから、あまり周りが見えていないのだ。
「じゃあ何で今更?」
「それがねぇ、どうやら新しい恋をしちゃってるみたいなのよ、カ・レ」
「ええっ!」
 思わず大声を上げてしまったカリーナの口をネイサンと二人がかりで抑えつけ、三人は慌ててトレーニングルームから退避した。幸い誰の耳にも入らなかったようだが、あんな場所ではいつ誰に聞かれてもおかしくないどころか、本人に気づかれてしまう恐れがある。休憩スペースに女性陣以外の誰もいないことを確認してから、三人は溜め息とともにそれぞれの胸を撫で下ろした。
「……で、今度は誰に恋してるの? 彼は」
 待ち切れないように身を乗り出したカリーナに、ネイサンが目を細める。
「あらぁ、誰だと思う〜?」
「イワンさんだと思う」
「えっ! ……え、ええっ?!」
 躊躇わずにパオリンが言うと、よほど予想外だったのかカリーナは目を白黒させた。
「どうしてそう思うの?」
 ネイサンが優しく問いかけると、パオリンは斜め上の虚空に視線をやりながらぽつぽつと話し始めた。
「だって、最近イワンさんはキースさんとよくご飯食べてるし、ボクとご飯を食べるときもキースさんはイワンさんの話ばっかりするし、この間はイワンさんのうちで二人でジャパニーズフードを食べたって言ってたよ」
「見事に食事ばっかりね」
 カリーナが半目になってパオリンを見遣るので、パオリンはちょっと頬を膨らませた。
「でも確かにそうねぇ、最近あの二人は前よりずっと親しいわよね。傷心のミスターヒーローが慰められているうちに、優しいあのコに恋しちゃってもおかしくはないわ」
 ネイサンまでがそう言って訳知り顔で頷くので、カリーナは同性だの異性だのという線引きがだんだん解らなくなってきてしまっている。しばらくパオリンとネイサンのやりとりを横目で眺めつつ難しい顔をしていたカリーナは、不意に顔を上げるとにっこり微笑んだ。考え込んだって仕方がない。
「まあ、新しい恋ができたならそれでいいわよね!」
「そういうこと!」
 三人は笑い合い、それでキースの恋についての話題は終わった。今回の恋愛については手出しを控えようと、三人それぞれ思いながら。
 その一連の会話を、たまたま休憩スペースの人目につかないところで横になっていたイワン・カレリン本人が全て耳にしてしまったということには、誰も気付かないまま。


 もともと相棒のバーナビーと飲みに行く予定だった鏑木・T・虎徹は、突然のイワンからの誘いに困惑していた。
「え、なに、今夜じゃないと駄目なのか?」
「……はい……」
 約束は先約を出来る限り優先するのが常識である。虎徹も例に漏れず、バーナビーとの約束を優先したいと考えていたが、しかしイワンの暗く沈みきった表情を見ると、何か手助けをしてやるべきなのかとも思ってしまう。普段はこれほど急に、しかも強硬に約束を取り付けようとする人間ではないことを知っているだけに、虎徹はどうにも適切な断りの言葉を見つけられずにいた。
「あー、その、明日じゃ駄目なんだな? どうしても今夜がいいんだな?」
 再確認をすると、イワンはこくりと頭を縦に振った。どうやらよほどのことらしい。虎徹はハンチングを頭から引き剥がすと、もう一方の手でがりがりと頭をかいた。仕方がない。ここは折れてやるか。虎徹は携帯電話を取り出すと相棒にかけてみた。予定があることを知った上での一か八かではあったが、案の定バーナビーは電話にでない。恐らく今はそういう状況ではないのだろう。留守番電話の自動音声を最後まで聞かずに電話を切る。不安げにこちらを見つめていたイワンに向き直って、もう一度頭をかいた。
「今夜はもともとバニーと約束してんだよ。あいつ今日は個人で雑誌の取材があるから、俺との約束はちょっと後なんだが、それまででもよかったら、」
「はい、お願いします!」
 間髪を入れずに声を上げたイワンに虎徹が苦笑して、それで二人はバーナビーともともと約束をしていたバーへ移動することになった。
 道中ほぼ無言だったイワンは、バーに着くなり早速注文したアルコールを流し込んでからもしばらくは沈黙していた。虎徹は自分は素面でいたほうがいいかと判断してソーダを注文する。二口ほど飲んでから、おもむろにイワンを見遣った。
「……で? なんか相談があったんだろ?」
 バーテンダーに追加の注文をしたばかりのイワンは小さく頷くと、しばらく逡巡するようにバーテンダーの手元を眺めていたが、やがて注文していたグラスが目の前に置かれ、決意を固めたようだった。
「その……恋を、しているんです」
「お前が?」
「……キースさんが」
「ええっ! キングオブ、あっもう違ったか、ええと、とにかくあいつが?!」
「はい」
 仰け反るようにして驚いた虎徹は、イワンが肯定した途端に身を乗り出してきた。
「で、どこの誰に!」
「それが……誰かに恋をしているのは確かだったんですけど、誰なのかまでは知らなかったんです。でも、さっきカリーナさんたちが噂をしているのを聞いてしまって……いえ、盗み聞きするつもりはなかったんです!」
「お、おう。解った解った。で、お相手はどこの誰なんだよ?」
 涙目で拳を握りしめて訴えるイワンに苦笑しつつ、虎徹は先を促した。
「それが……僕だって言うんです……」
「お前ぇ?!」
 今度こそ驚いた虎徹は大声を出してしまい、慌てて周囲を確認する。バーテンダーがやや冷たい視線を向けてくるのに頭を下げて、虎徹はますますイワンに身を寄せた。
「あいつになんかしたのか? 心当たりは?」
「いえその……実はキースさんはしばらく前に普通の女性に恋をしていたそうなんですけど、失恋してしまったらしいんです」
「それがどうしてお前になったんだ?」
「落ち込んでいるキースさんを見ていたらなんだか元気づけないといけないような気になってしまって、つい色々と話しかけたり一緒に出掛けたりご飯を食べたり……」
 言いながらイワンはますますうなだれていく。これまではキースの恋の相手が気になるばかりで、自分のことは全く考えていなかった。まさか自分がその相手だったとは思いもよらず、自分のとった行動を思い返せば思い返すほど、失恋の痛手に落ち込んでいたキースにつけ込んでしまったとしか考えられないのだった。
「そりゃあお前……つけ込んだって言われてもおかしくないよな」
「やっぱり……そう……ですよね……」
 第三者の意見を求めようと思って虎徹に話してはみたが、その虎徹からもまさに恐れていた一言を言い渡されてしまい、イワンはそれこそ地の底にでも沈んでいきたいような心地になった。ふと目の前に手をつけてもいないグラスがあることを思い出し、半ば自棄になって一気に煽る。
「……僕はどうしたらいいと思いますか!」
 酒の勢いを借り、振り向きざまそう聞いてみる。問われた虎徹は困惑しきった表情で腕組みをすると、唸り声をあげた。
「キースには告白されたのか?」
「いいえ。本人が自覚しているかどうかも……」
「それだったら、もういっそ知らない振りを通した方がいいんじゃねぇ?」
「知らない振り……」
「あいつはなんか鈍そうだしなあ。前は普通に女の子が好きだったんだろ? だったらお前が何も言わなかったら本人もずっと気付かないままでいるんじゃないかなーって思うんだよな」
「……」
 知らない振りを通して、ずっとこのままの関係でいる。時々一緒に食事をしたり、出掛けたりして、……いい、友人として。そう考えるとイワンの気持ちは千々に乱れた。思えばキースが自分に恋をしていると聞いて動揺していたが、自分こそがキースに恋をしてしまっていたのではないだろうか。だからこそ、当初はただ彼の様子を観察して今後のヒーロー間の関係をより良く保とうという考えでいたはずだったのに、これほどまでに、そして必要以上に彼に関して踏み込んでしまったのではないか。
 この時点で初めてイワンは薄々感じていた自分自身の恋心について明確に自覚した。だが、それは自覚とともに忘れ去られなければならないのだった。
「そうですね。キースさんのことを思うなら、それが一番の選択肢ですね」
 はっきりと言い切った瞬間、イワンはキースへの気持ちを諦めることを決意した。どうやら虎徹もイワンの気持ちには気付いていないようだったし、恐らくそれは先程キースの恋について談義していた女性陣にしても同じことだろう。もし気付かれていたなら必ず話題に上がったはずだった。
「そうだな。それがいい」
 頷いた虎徹は、ふと後ろを振り返ると手を挙げた。店のドアをくぐったバーナビーがちょうどやってくるところであった。
「こんばんは。……珍しいですね、先輩。なにかありましたか?」
「いえ、ちょっとだけ虎徹さんに付き合って貰っていたんですけど、もう帰るところでしたから。すみません、長々とお邪魔しました。虎徹さん、ありがとうございました」
「はあ、そうですか。……では、お気をつけて」
 慌ただしい挨拶に少し怪訝そうな表情を浮かべたバーナビーは、それでもイワンに向かってぺこりと頭を下げた。虎徹が最後にイワンの肩をいささか強めに叩く。
「頑張れよ!」
「はい。ありがとうございます」
 今なら引き返せる。いや、引き返すなら今しかない。イワンは悲愴な決意を飲み干すように、グラスに残ったアルコールを空にしすると、自分の分の代金をカウンターに残して席を立った。
 氷が半ば溶けたカクテルは茫洋とした後味を残し、涙で滲んだ視界のような味だと、イワンは思った。


 よりによって自分がキースから相談を受けるとは予想していなかったアントニオ・ロペスは、しかし持ち前の磊落さで彼の期待に応えるべく、お気に入りの小さな食堂に二人でやってきていた。小汚いのでデートには不向きだが、食事の味だけはピカイチの店だ。下手に洒落たレストランやバーよりも、こういう小ぢんまりとした場所のほうが往々にして相談事には向いていることを、アントニオは経験から学んでいた。
「ここはオムレツが美味いんだが、お前さんはどうする?」
「ああ、じゃあ君のおすすめにするよ」
 メニューを軽く振りながら問いかけたアントニオに、物珍しげに辺りを見回していたキースがにっこりと微笑む。相談があるんだ、と少し深刻そうな表情でキースが言い出したのはほんの数十分ほど前のことで、深く思い悩んでいる様子に気を揉んでいたのだが、今のキースからはそんな素振りさえ見えず、やや拍子抜けする思いだった。
「飲み物は何にする」
「今日はアルコールは遠慮しておこうと思う」
「俺はちょっと飲みたい気分なんだが、構わないか」
「もちろんだとも」
 にこにこと微笑むキースは、見た目だけなら悩み事とは無縁にも見える。だが、目の前に居るのは今までキングオブヒーローという称号とそれに伴う期待や責任を背負ってきた男であり、現在は頂点を退いたものの、相変わらずアントニオでは及びもつかない存在なのだった。こいつはほんと見た目じゃないよなあ、と内心で改めて感嘆する。アントニオの心中をよそに、キースは楽しそうに飲み物を注文している。やがて二人分のグラスが運ばれ、続いて(この店は速さに定評があるのだ)食事が運ばれてくると、二人はしばらく目の前のプレートに専念することになった。普段なら軽口でも叩きながらでもおかしくはないのだが、今日は相談事があってのことである。アントニオはキースが口を開くのを待つことにして、遠慮なく胃袋の欲求を優先させた。
 お互いにプレートの食事を半ば片付けた頃、ようやくキースが話を始めそうな素振りを見せた。カトラリをそっと置くと、自分のグラスに手を伸ばす。一口飲んでテーブルに戻してから、キースは改まってアントニオを見つめた。
「今夜は急だったのに付き合ってくれてありがとう、そしてありがとう」
「いいって。気にすんな」
 片眉を上げてにやりと笑うアントニオにキースが頷く。
「相談というのは、恋の相談なんだ」
「ふむ」
 キースの口から恋という単語が出ること自体があまりにも珍しく、アントニオは危うく口を挟んでしまいそうになった。ぐっと堪えてそのままキースが話すのに任せる。
「……恥ずかしい話なんだが、実はわたしは以前ある女性に恋をしてね。だけど、わたしは彼女に自分の想いを伝えるどころか、彼女の名前すら知らなかった。そのまま彼女に会えなくなってしまって、わたしは何も出来ないまま失恋してしまったんだ」
 ぽつぽつと語るキースは少し俯いていて、どれだけその失恋が辛かったのかを物語るようだった。やや伏せられたキースの睫毛が小さく震える。キースは名前も知らない彼女とのやり取りや、自分が彼女からどれだけの勇気を貰えたか、また、あれから二度と会えなくなってしまってどれほど苦しんだかを切々と語った。アントニオは何も言わず、黙って話を聞き続けた。
「だけど、わたしはそれからまたほかの人を好きになった。……失恋してしまったのが辛くて、苦しくて、信じられなくて……諦め切れなかったわたしが立ち直れたのは、その人のお陰なんだ」
「……そうか。よかったな」
 ぶっきらぼうな言葉に万感の思いをこめてアントニオはじっとキースを見つめた。視線を上げたキースがすこし潤んだ瞳でわらう。
「そうなんだ。とても、素敵な人なんだ。……だけど、その人は落ち込んでいるわたしを元気付けようとしてくれたのだと思うけれども、わたしがこの気持ちを伝えたら迷惑になるのではないかと思って……」
「なあ、キース」
「……なんだい?」
 アントニオはキースの青い瞳を覗き込み、言い聞かせるように断言した。
「どーんとぶつかれ。そういうのはな、なるようになるんだよ。崖っぷちのてっぺんで身を縮めてるだけならそりゃあ安全だろうが、それじゃあ何も変わらないだろ。飛び降りてみりゃいいんだよ。相手が受け止めてくれるかどうかは、それで解るだろ」
 キースはしばらく無言になって考えている様子だった。彼が迷惑という言葉を選んだのには、きっとそれなりの理由があるのだろう。アントニオはそれについて詳しく聞いてもよかったが、しかし、そういった何かの事情に翻弄されているのではないはずだった。それならわざわざアントニオに相談することもなかっただろう。迷っているということは、誰かに後押しをしてほしいということと同義なのだ。だからアントニオは詳しい事情を確認することをやめた。相手が誰なのかも知らないし、相談を受ける上で知る必要もない。好きなら好きと言えばいいのだ。縁があればうまくいくだろうし、告白が成功しなかったのならそれは縁がなかったということなのだろう。お互いに無言のまま、アントニオはしばらく周囲のざわめきを聞いていた。
「……ありがとう」
 やがて、キースがぽつりと呟いた。視線を戻すと、彼は先程見せた躊躇いを振り切った表情をしていた。
「君の言う通りだ。どんな結果になっても構わない。あの人に気持ちを伝えてみようと思うよ」
 そもそもわたしが片思いしているだけのことだったんだから。そう言って笑ったキースは、その瞬間ただ一人の恋する男だった。

 ああ、キースが幸せになりますように! 誰もが片思いをしているキースのために祈っていたことを、キースはまだ知らない。


(08.02.11)


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