ロ、乱数、そしてゼロ


 名前も知らない女性に恋をして、彼女に勇気を貰ってから、キースは未だにその女性に再会できずにいた。
 キースは彼女については赤は好きではないこと、綺麗な髪をしていたこと、NEXT能力に目覚めたばかりでそれがコントロールできていなかったことくらいしか情報を持たない。名前はもとより、普段どんなことをしているのか、どこに住んでいるのか、……そして何故あの頃毎日あのベンチにいたのかさえ、知らない。何故突然来なくなってしまったのかも。
 不在の時間はキースの中に疑念ばかりを生んだ。初めて見た瞬間に素敵だと思ったのは確かだったが、彼女が自分と同じNEXTだと知って親近感を覚えはしなかっただろうか。キースのことを何も知らない彼女に自分の不安ばかりぶつけていたが、それは単純に自分の気持ちが弱っていたためではないだろうか。誰かにそうやって受け入れて貰えさえすれば、誰でもよかったのではないだろうか。本当に、彼女でなければいけなかったのか。思い返せばあれは恋だったのかさえあやふやで、同情とか自己投影とかそういう言葉に置き換えられても不思議ではないのだった。
 確かにわたしは彼女に恋をしていたはずなのに。考えるほどに自分の気持ちが揺らいでいく。
 キースはスカイハイの活躍とは裏腹に、ベンチで待つ日々を重ねるごとに、渡せなかった花束を持ち帰るたびに、表情を曇らせていった。
 そうして彼は毎日薔薇を抱えて、彼女に再会できるのをただ待っている。家中の花瓶に溢れそうな薔薇を枯らしながら。心配そうに彼を見守る人々の気持ちを黙殺しながら。

 彼女が再び現れたのは、何日間待ち続けたのかキースが数えるのをやめてから、更に何日も経ってからだった。その日は空が晴れ渡り、夕暮れの光線がわずかに浮かぶ雲を照らしているのがうつくしかった。いつか彼女はまた現れてくれるはず。そう信じてじっと眺めていた人ごみの中に見つけた、懐かしい赤いカチューシャ、透き通るように白い肌。ああ、あれは彼女ではないか。思った途端にキースは走り出していた。
「……君! ねえ君、」
 名前を知らないということはなんて悲しいことだろうか。キースの呼ぶ声に気付かずに彼女は歩いてゆく。道ゆく人々が何事かと振り返っていくのにはかまわず、キースは遠ざかっていこうとする背中を追って走った。
 何とか追い付いて、息を切らしながらキースは彼女の前に立つ。そこにはキースが待ち続けてきた彼女がいた。赤と白のワンピース、夕陽を浴びて輝く銀髪。彼女の青いひとみに自分自身が映っているのを見るのは、どれくらいぶりになるだろう。
「少しだけいいかな」
 緊張のあまりすこし上ずる声で、キースは問いかけた。彼女がことりと首を傾げる。
「なぜ?」
「君の名前は……、いや、これを君に渡したくて、」
 彼女に会ったら名前を聞こう。感謝の言葉を伝えよう。彼女のお陰でどれだけ救われたか、どれだけ大きな勇気をもらったのか、それを伝えたい。そしてまた話をしたい。以前は余裕がなかったけれど、これからは彼女の話も聞いていきたい。いっぱいの思いをこめた花束を差し出し、キースは彼女のひとみを見つめた。
「なぜ?」
 夢にまで見た彼女は、しかし無機質な視線をキースに向けるばかりだった。まるで初めてキースという男を目にしたかのように。不思議と背中が冷える。
 不意に、キースは目の前の彼女が待ち続けてきた女性とは別人であると気付いた。姿形も、声も、表情まで同じなのに、何かが決定的に違う。
「あ……」
 言葉を失ったキースは花束を差し出したまま立ち尽くした。彼女は、違う。キースの中のなにかが声高に叫ぶ。違う。違う。これは彼女じゃない。
「その、人違いを……したようだ。すまない。……君にはきょうだいはいるのかな」
「いいえ」
「以前ここに来たことは……?」
「いいえ」
 彼女はまっすぐキースを見つめたまま否定した。こんなにも同じなのに、彼女ではない。そんなことがあるだろうか。キースの気持ちは激しく揺れ動いた。彼女はキースとは二度と関わりたくないがために嘘を言っているのか。それとも本当に別人なのか。目の前の女性に感じる彼女との違いは一体なんなのか。ただひとつ解ったことは、キースが待っていたのは彼女ではなかったということだった。
「そうか……邪魔をして……すまなかった」
「……」
 女性はしばらくキースを見つめていたが、やがて興味を失ったようにキースを避けるとまた歩きだした。白く頼りない背中が徐々に遠ざかり、やがて見えなくなる。
 後には独り、伝えられなかった想いを抱えたキースだけが取り残されていた。


(07.29.11)


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