ネイサンが自分自身の感情に気づくのは早かった。
 キングオブヒーロー、スカイハイ、キース・グッドマン。多くの名前を持つ男を好きになっていることに気づいたのは、自分がオフのときにたまたま街でキースに遭遇したときのことだった。ネイサン、と名前を呼ばれた時の気持ちを彼は当分忘れることができないだろう。屈託なく微笑む目の前の男に、これから先もファイヤーエンブレムとしてではなくネイサン・シーモアというひとりの人間として接してもらえたら。自然とそう考えたネイサンは、だが、そんな日が来るはずもないことを確信していた。  そもそもキースはどう見てもヘテロセクシャルで、同性に対しては恋愛感情以前の問題に間違いがない。自分がどれほど気持ちを尽くしたところで、彼がネイサンに振り向くことはないだろう。むしろ、あの優しい男のことだから、向けられた恋情に何とか誠意を尽くそうとして困らせてしまう結果になることは目に見えていた。
 仕方ない。割り切って諦めるしかない。そう思いながらネイサンは何度も何度もキースと会話し、笑いあい、時にはヒーローとして協力し合った。だが、ネイサンの苦しみは癒えるどころか増す一方で、ひたすら彼を苦しめ続けるのだった。
「ネイサン」
 ネイルチップを指先でなぞりながらぼんやりと窓の外を眺めていたネイサンは、突然呼びかけられて振り返った。そこに想定していなかった人物の姿を見て内心僅かに動揺しながら小さく首を傾げる。
「あら、どうしたの?」
 そう言う自分自身の横顔が窓ガラスに薄く反射する。わずかに身構える、それは自分の感情に対する予防線だ。普段ジムに直行するキースがカフェテリアに現れるとは思わず、すっかり無防備でいてしまった。気をつけなければいけないのに。
「いや、……」
 何か言いかけたキースがすこし困ったようにわらう。
「何でもない。たまたま見掛けたから挨拶でもと思って」
 じゃあ、と軽く手をあげて立ち去る姿を見送って、ネイサンは再度窓の方を見つめる。彼の目はガラスがうつしだす男の後ろ姿を眺めている。
 このまま虚像のなかに気持ちを落としていけたならどんなにいいだろう。そっと触れたガラスにわずかに立てた爪が軋んだ音を響かせた。


 最近ネイサンの様子がおかしいことに、珍しくも、どうやらキース以外の誰もが気付いていないようだった。
 どんな時も前向きに明るく振る舞うネイサンをキースは尊敬している。落ち込む時もうまくいかない時も彼にだってあるだろう。ヒーローであり、かつ一つの企業を背負うネイサンの重圧は自分たちとは比にならないだろうと思うのに、彼は大概いつだって周囲を気遣い、また時には突飛なこと、例えばアントニオを飛び上がらせたりして皆を笑わせたりもするのだった。
 そんなネイサンの様子が少し変わったと感じたのはいつからだろう。ネイサンと言葉を交わしているときに感じる、不可思議な距離感。拒絶に近いそれに、キースはいつも黙らされてしまう。
 先程も、普段は訪れることのないカフェテリアまで行ってしまったのは、コーヒーが欲しかったからでも気分転換がしたかったわけでもなかった。ただ、気付けば最近見掛けることが少なくなったネイサンの姿を探していた。
 ああ、そして彼による拒絶が胸の底に残したひんやりとした感触ときたら!
 ワークアウトの合間に休憩を取りながら、キースはぼんやりと休憩スペースの壁に飾られたヒーローたちの写真を眺めた。
何となく物悲しいような気持ちになって、そしてこんな時に真っ先に言葉をかけてくれていたのがネイサンだったことを思い出す。
 自分自身の感情が掴めなくなって、キースはもう少し休憩を取ろうと自分に言い聞かせ、俯いて目を閉じた。疲労を感じているのが肉体ではないことは彼自身わかっていながら。

「お前最近なんか悩んでるんじゃないのか」
 突然声を掛けられて、キースは驚いて振り返った。アポロンメディアを後にしようと、エントランスへ続く廊下を歩いているときのことだった。
 結局あれからネイサンが通りかかることがないか待っているうちにだいぶ遅くなってしまった。ネイサンがジムに姿を現さないまま日が暮れてしまい、ようやくキースも重い腰をあげて立ち去ることにしたのだった。
 不思議と落ち込む気分の原因が自分でもわからないままではあったが、無躾なほど直接的な聞き方はいかにも虎徹らしくて、多少の動揺も感じつつキースは小さく微笑んだ。
「やあ、ワイルド君。君もジムに居たのかい?」
「いーや、俺は今日一日書類と戦っててな……もうへっとへとだよ。向いてないことやらされんのもなあ」
 唇を曲げてがしがしと後頭部をかく虎徹は、ふと動きを止めるとそのままの姿勢でじっとキースを見つめた。
「……で? 俺がさっきからずっと後ろ歩いてんのに気付かないなんて珍しく上の空じゃねえか、キングオブヒーロー」
「そうかな……」
「そうだろ。何だよ、誰かと喧嘩でもしたのか? いやお前さんはそんなことしないか……」
「するときもあるよ」
「えっ」
 虎徹が心底意外そうに眉を跳ね上げる。
「わたしもどうしたらいいかわからないんだ」
 キースはそう言って微笑んだ。
 何故ネイサンがキースに対して拒絶を見せるのか、指一本触れなくなったのか、笑いかけてくれなくなったのか。それがわかる日が来るまでは、こうして悩み続けるのだろう。
 思えば自分とネイサンはヒーローという名の同業者であって、ただの友人というにはしがらみが多過ぎた。そこに特別な関係を見出だしていたのはキースばかりだったのかも知れない。お互い解りあい支え合うのは望みすぎだったのだろうか。
 虎徹の不器用な慰めの言葉を聞きながら、キースは胸のうちであの鮮烈な炎に思いを馳せた。わずかに残る胸の痛みに名前をつけられないまま。


(06.29.11)


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