色のシュプール


 ネイサン・シーモアという男と奇妙な関係を持つようになってからも、キース自身が変化したようなところはなかった。彼との関係は、以前は顔を合わせれば挨拶を交わし、また時々世間話をする程度のものだった。それがいつからか、彼の指が肩に触れるようになり、腰を抱かれるようになり、唇を重ねられ、そして先日とうとう体を重ねることになった。キースは同性同士での行為についての知識を全く持ち合わせていなかったので、ひとつひとつの手順に驚かされるばかりであったが、しかし行為そのものには不快感は抱かなかった。ただ、あらぬところが後々痛みをおぼえたので、自分自身の鍛え方が足りなかったことに気づかされたことが収穫といえば収穫であった。そしてそれ以来、キースは誘われるままに何度かネイサンとベッドを共にしている。

 この日もキースはネイサンに誘われるままホテルのラウンジでカクテルを飲み、そして誘導されるのに従って上層階の部屋に入った。いつもはネイサンの自宅へ招かれることが多いが、ネイサンによれば今夜はそれまで待てないとのことだった。ネイサンによれば随分と性急に、だかキースからすれば丁寧すぎるほど丁寧に行為は行われ、数時間後にはキースは息を切らしてベッドにうつぶせていた。
「ハイ、これでよかったかしら?」
 満足そうな笑顔と共に差し出されたミネラルウォーターを受け取り、キースは小さく頷いた。行為の後はうまく声を出せない状態になることをネイサンは知っているので、こういう時に礼の言葉は必要がない。どこかお互いをわかりあったような遣り取り、それはキースにとって何となく気持ちいいものだった。
 自分自身のためにスパークリングウォーターをフルートグラスに注ぐネイサンの後姿をぼんやりと眺める。セックスというものは何故こうも体力を消耗するのだろうか。疲労感に見合うほど動いたようには思えないと、散漫に思考する。火照りを残す頬に押し当てたボトルがひんやりとキースをなだめる。  キースは未だにネイサンからはこの関係が何なのかはっきりとは知らされていない。二人の関係がわずかに変わったことは事実だが、それについてネイサンが言及することはなかったし、キース自身もあまり深く考えてはいなかった。普段どおりに振る舞い、普段どおりに会話し、そして今までにはなかったことをする。女性とベッドを共にするのは結婚を前提とするものだとキースは考えていたが、男性との場合はどうなのかはわからないままだった。
 グラスのふちを拭い、テーブルに置いたネイサンの指先を眺めながら、キースはふと恋情とは全く別の次元からネイサンに問いかけた。
「私たちは何を前提としてこうしているんだろう」
「……あら、それはどういう意味で訊いてるのかしら?」
 ゆっくりとネイサンが振り返る。先ほどの行為の際に照明を抑えたままの室内はやや薄暗く、見上げた表情から感情を読み取ることが少し難しい。キースは自分自身上手く表現できない漠然とした疑問を唇にのせる。
「私は、こういう行為は女性とするものだと思っていた」
「……そう」
 ネイサンの指が、さきほどテーブルに置いたはずのグラスのふちをなぞる。指先がくるりと半円を描くたび、ふわん、と僅かな音がする。
「女性とこういうことをするのは、その相手と結婚してからだと思う……」
「……」
 こういう場合に的確な言葉が選べず、キースはわずかに眉根を寄せた。ネイサンは沈黙して何も言わない。果たしてどう表現すれば正しく伝えられるのかはわからなかったが、しかしこの疑問を自分の中にいつまでも閉じ込めておくことは、キースには何故だかできないのだった。
「何と言ったらいいのか……その、私たちは男性同士だ、」
「そうね」
 不意に、ネイサンがキースの言葉を遮った。基本的にネイサンは誰と話していても相手を尊重する姿勢を見せる人間である。その彼の常にない不躾な振る舞いに、キースは驚いて顔を上げた。
 ネイサンは泣き出しそうな表情をしていた。
「ネイサン……?」
「解ってるわよ……アナタはアタシのことが好きでこうしてる訳じゃァないんでしょ。そうよ、アナタは流されただけで、アタシたちパートナーになったのでも何でもないのよ。それでいいんでしょう……?」
「……私たちの間には、約束はないのかい……?」
「ないわよ。馬鹿な子ね」
 キースは言葉を失って、ただ顔を背けてしまったネイサンの横顔だけを見つめた。
 今にも涙を零しそうな表情をしたネイサンは、涙の代わりに蒼いひかりをじわりと滲ませる。見ると、ネイサンが指先でなぞっていたグラスのふちがわずかな炎と共に融けだしていた。ああ、それはネイサンが特に気に入って海外から取り寄せたと言っていたグラスなのに。
 そう思った途端、キースの目からぽろりと涙が零れ落ちた。
「ネイサン」
「……もう話すことはないわ」
「私にはあるよ」
 キースは自分が何も身につけていないことも構わず、ベッドからおりてネイサンの正面に立った。
「女性とは結婚したらこういうことをする。だけど同性同士だったら結婚はしないだろう、」
「それはもう聞いたわ」
「続きも聞いてはくれないだろうか、ネイサン」
 伏せられようとするネイサンの目じっと見つめて、キースは言葉を続ける。
「私は流されてなんかいないよ。……ただ、よく解らないだけなんだ。ネイサン、君は私とどうしたいんだ……?」
「キースちゃん……?」
 やっとキースに視線を合わせたネイサンは、彼がその青い瞳を潤ませていることに目をみはる。
「私にどうして欲しいのか、言ってくれないと私には解らない。今までは一度も誰ともこういう関係になったことがないし、……ああ、ネイサン、君にとって私はどういう存在なんだい?」
 口に出して初めて、今まで自分が抱いていた疑問に気がついた。キースはネイサンの本心が知りたいのだった。
「……!」
 前触れもなく腰を抱き寄せられ、キースは息を呑んだ。抱き締められた勢いで涙がまた一粒ぽろりと頬を伝ったが、それを吸い取るようにネイサンの唇がキースの頬に触れる。
「もうっ、アナタってホント馬鹿ね……アタシもアナタみたいな子相手に怖気づいてたってのもあるけどね」
 柔らかな微笑みを見て、キースもようやく安堵する。ああ、正しく伝わったのだ。
「どうして欲しいかって、簡単よ。アタシの恋人になって欲しいに決まってるじゃない」
「恋人……」
「そうよ。だから抱いたのよ」
「そうだったのか……」
 感心したような顔で頷くキースにくすりと小さく吹き出して、ネイサンは彼をベッドに座らせた。くしゃくしゃになっていたシーツをかけてやり、自分も横に腰掛ける。
「アタシのことはいいの。それより、アナタはどうしたいのかしら」
「私……私は、本当によくわからないんだ」
 キースが言葉を選ぶのを、ネイサンは今度はゆっくりと待っている。
「私は、君と前より話すようになったのが嬉しい。こうやって過ごすのも、嫌いじゃない。それから、君がいつもベッドを共にした後にくれる水はおいしい。……それではいけないだろうか……?」
「いいに決まってるじゃない。そのまま、アタシのことをもっと好きになるって約束して頂戴。まっ、こうなったからには逃がしたりなんかしないんだけどね」
 ネイサンはようやく満面の笑みを取り戻した。キースに向かってばちんとウィンクを飛ばしてさえみせる。同じく嬉しそうに破顔したキースが、途端に小さく咳き込んだ。
 咄嗟にテーブルのグラスに手を伸ばしたネイサンは、だが、それが使い物にならないことにすぐに気づくと、ベッドサイドに置かれていたボトルをキースに手渡した。キースがそれで喉を潤してからネイサンに視線を戻すと、彼は融けかかった状態で凝固したグラスを見て溜息をついている。
「ハァ……アタシってば勿体無いことをしたわぁ……」
 炎の熱で捻じ切られたグラスの断面は、ネイサンの指がなぞった軌跡どおりに融け、虹色にひかりを反射してにぶく輝いている。それはネイサンがキースのために感情を波立たせた証拠だ。
「……よかったらそれをくれないだろうか」
「このグラスを?」
「ああ。私の部屋に飾っておこうと思うよ」
 キースは晴れ晴れとした笑顔で頷いて、それから、初めて自分からネイサンにくちづけた。


(05.29.11)


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