る狂おしい恋の記録
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 行方不明になっていたスカイハイは、郊外にある研究施設の一室で発見された。救助隊が踏み込んだ時、彼は部屋中を覆うほどに肥大化した未知の生物によって磔にされ、絡みつかれていた。十数名居たと思われる研究員は全て死亡を確認。人体の損壊は著しく、正確な人数は判別不能。施設の主要な機器は破壊されていたが、電源装置は破壊されておらず、スピーカーからオペラの楽曲が繰り返し流れ続けていた。スカイハイの意識は有り。未知の生物による救助隊による救助活動への妨害無し。救助後の調査により、救助の数時間前に死亡していたことが確認済み。スカイハイは病院へ搬送され、現在は軽傷のため入院中。生命に別状なし。生物による影響は現在検査中。……


* * *


 流れ続けていた音楽は、オペラ『サムソンとデリラ』の一曲だった。オペラの劇中で、デリラがサムソンを誘惑するために歌い上げるアリア。それを彼が知るのはだいぶ後、全てが収束してからしばらく経ってのことになる。
 意識を失っていたスカイハイが覚醒したのは、どこか遠くから流れる音楽に気付いた時のことだった。ひどい頭痛に苦しみながら顔を上げた彼は、これまでに見たこともないような空間に居た。真っ白い一室。家具やそれに類するものはなく、部屋の中央に設置された椅子に、スカイハイは拘束されていた。彼から見た正面は全面がガラス張りになっており、どこかポセイドンラインの研究室にも似たその向こう側には、しかし、見知らぬ白衣の人々しか居なかった。
 人々の後方、キースの居る場所からは陰になって見えないそこに、なにか巨大なガラスの容器が設置されている。あれは、何だろう。考えた途端に頭痛の波が襲いかかり、スカイハイは小さく呻いた。
「う……」
 彼が覚醒するのを知っていたかのように、整然と並んで座っていた男女が冷たい視線をさっと彼に向ける。なにか物質を観察するかのような、冷静で、感情を感じさせない視線の群れ。
 これまで会ってきたどんな研究者も、スカイハイに対しては笑顔を向け、献身的にサポートをしてくれていた。そんな彼らのものとは全く温度の違う視線に晒され、スカイハイは彼を苛む頭痛すら一瞬忘れて途方に暮れた。自分は何かしてしまったのだろうか。困惑した表情でわずかに首を傾ける。その動きが鈍い痛みを呼び、スカイハイは苦痛の呻きを噛み殺すために目を閉じた。
 再び目を開いた時、白衣の人々は既にスカイハイを見てはいなかった。それぞれ機器やディスプレイに向かい、忙しなく手を動かしている。彼らとの間はおそらく強化ガラスに遮られており、音は一切届いてこない。わかってはいたが、それでもスカイハイは声を上げて彼らの注意を惹こうとした。
「すまないが、わたしは何故ここに居るのだろうか」
 問いかけに対する応答はない。中央で指示を出していると思われる男がちらりと彼を見遣り、すぐに手元の資料に視線を落とした。
 不審感をおぼえ、スカイハイは自分の全身を視線でチェックする。マスクとジェットパックは外され、両手両足を袖の長い拘束服で拘束されている。窮屈な布地の中で左手を動かしてみて、PDAが外されていることも確認した。これは正常な実験ではない。少なくとも、ポセイドンラインではこういう、被験者の自由を断りなしに奪うことはしない。
「……君たちは誰なんだ。わたしをここから出してくれ。そして、解放して欲しい」
 状況は全く見えなかったが、自分が置かれている状況があまり好ましいものではないことを彼ははっきりと認識していた。警戒心が声に滲む。先ほどの反応からして、こちらからの音声が届いていないわけではないのだろう。だが、相変わらず応答はないままだ。くっ、と眉を寄せ、スカイハイはガラスの反対側で忙しなく立ち回る人々を睨み据えた。
「これ以上応答がないのなら、実力を行使させてもらおう」
 だが、彼らのうちの誰も動じたようではなかった。スカイハイをペンの先で指して何かの話をしている者もいたが、視線だけは合わせられることがない。意を決したスカイハイの瞳が青い光を帯び始め、どこからともなく巻き起こった風が彼の金髪をそよがせる。室内の空気がごうごうと音を立てて渦巻く。
「はあぁ……!」
 やがて高まった風圧の限界が訪れる。ドオオン、という低い衝撃音と共に、強力な塊となった風が部屋全体を震わせた。びりびりと分厚いはずのガラスが振動する。やがてその振動が止んだ頃、渾身の力で放たれたはずの能力で壁が破れなかったことに、スカイハイは唇を噛んでいた。風に煽られていた金髪が舞い降りて再びスカイハイの額にかかる。部屋そのものは、どこにも破損した様子がなかった。
『君ならそうすると思ったよ、スカイハイ』
 ふと、室内のどこかに設置されていると思われるスピーカから男の声がした。はっと顔を上げた先、ガラスの向こうで、恐らくこの人々の中心格と思われる男がマイクを持って話していた。悠々とと部屋を横切りながら、時折スカイハイの方を見遣る。その態度からは余裕が滲み出ていた。
『このガラスにどれだけの耐久度があるのか、君にはわからない。そうだろう』
 コツ、コツ、と足音すら聞こえてきそうなほどじっとその男を注視して、スカイハイは苦しげに顔を歪めた。彼の言う通り、ガラスの強度が計り知れない以上、そこに向かって圧力をかけるわけにはいかなかった。万が一のことがあった場合に、反対側に居る人々を殺傷する可能性がある。最初から、ガラスを破るということだけは彼の選択肢から外れていた。
『君には研究に協力して貰いたい。それだけだ』
「何を言っているんだ。わたしにはわたしの、するべきことがある。そういう訳には……!」
『これ以上君に伝えるべき内容はない』
 抗弁しようとするスカイハイに男が唇だけでわらって見せる。既にマイクは彼の手から離れており、これ以上の議論は望めそうになかった。ここにとらわれている限り、スカイハイに選択の権利は与えられていない。
「わたしをここから出してくれ!」
 ヒーローとして行うべきこと、彼を心配するだろう周囲の面々を思う。返答が望めないことがわかっていながら、スカイハイはそれでも声を上げ続けた。そんな彼を嘲笑うかのように、部屋の四隅から音もなく何らかの気体がたちこめ、ゆっくりと充満してくる。
「わたしは……戻らなければいけないのに……!」
 しばらくは抵抗を示していたものの、やがてスカイハイの意識は強制的にシャットダウンされた。オペラとおぼしき音楽だけが遠く、遠く響いていた。

(本編に続く)

(12.30.11発行)


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