水面に映る スカイハイと落し物


 わたしはポセイドンラインの、あるモノレールの遺失物係をしている。主な仕事は問い合わせの電話に回答することで、一日7時間半の業務時間でひたすら電話をとり続けている。休憩時間はランチタイム以外に午前中と午後で15分ずつ。
 遺失物係と言うとさほど忙しくもなさそうに聞こえるけれども、実際のところ問い合わせの電話はひっきりなしに鳴る。そのたびにわたしは遺失物について聞き、データベースからそれを調べて回答する。遺失物係に掛かってくる電話のほとんどはあまり丁寧でないことが多い。特に財布だの鞄だのは誰かに持ち去られて遺失物センタに届かないことが多く、大半が失望で終る。問い合わせを受けた結果相手が喜ぶことは稀だ。それだけに、理不尽な怒りをぶつけられることも珍しくはない。
 今日もわたしは大切な資料の入った紙袋をモノレール内に忘れて紛失したという電話を受けて怒鳴り散らされた。あれがないと明日困るんだよ! 大声をあげられる前にさっと手をのばして受話音量を下げる。この仕事をしていると怒りの気配には敏感になるものだ。わたしは無機質な声色のまま、まだ届け出がされていない可能性があることを伝えたが、恐らく明日再度問い合わせをしてもらっても無駄だろう。誰かが持ち去ってしまった場合、中身に金目のものがあってもなくても、どこかで捨てられてしまう。感情的になっていた男がやがてがちゃんという音と共に電話を切り、わたしは小さく溜め息をついた。時計を見るとランチタイムは既に5分ほど経過してしまっている。
 電話機を切って席から立ち上がり、自分の手提げを持ってオフィスを出る。エレベータに乗り込むと、迷わず最上階を押した。気分が落ち込んだときのわたしの唯一の楽しみは、屋上に行って空を眺めることだった。シュテルンビルトの空は広くても、ブロンズステージから見上げる空は、その上のシルバーステージやゴールドステージに切り抜かれて狭い。それでも、最上階からさらに階段をのぼった先にあるこの景色はわたしに安息を与えてくれていた。そこでならわたしは完璧に一人きりになれる。怒鳴り散らす客や失望の溜め息、ノルマに煩い上司も愚痴ばかりの同僚もいない。わたしはそれら全てをオフィスに残し、ここでだけ身軽になれる。たいして高くもないフェンスに寄り掛かり、わたしはぼんやりと空を眺めた。
 この仕事のストレスの量に比例するように、辞めていく同僚も多い。わたしのすぐ隣の席にいた同僚がとうとう辞めていってしまった夜、わたしはこれまでになく落ち込んで屋上にやってきていた。彼女はあまり愚痴を言うタイプではなく、わたしが唯一安心して話をできる相手だった。辞めてしまうほど彼女がストレスを溜め込んでいたこと、それを一切相談されなかったことにわたしは自分が思っていた以上に落ち込んでいた。
 夜の空を見上げると、上層に切り抜かれた部分はとてつもなく黒く、まるでそこだけ夜空が消失したようだった。わたしはフェンスにぐったりともたれて深く深く溜め息をついた。辞めていった彼女は皆に挨拶すらしなかった。それほど嫌だったのだろうか。今まで世間話をしたり会話してきたのは、全て社交辞令だったのだろうか。考えるほどに悲しくなってきたが、涙は出なかった。結局こんなものだ。
 しばらくフェンスの冷たさを頬で確かめていたわたしは、そろそろオフィスに戻ろうと考えて顔を上げた。
 その視界の先に、スカイハイがいた。
 驚く以前にそもそも現実感がなくて、わたしはしばらく無言でスカイハイを見つめた。スカイハイは小さく首を傾げると、「気分がわるいのかと思ったのですが、大丈夫ですか?」と丁寧に声をかけてきた。わたしはそれでようやく目の前にいるのが本当にスカイハイであると気がついた。
「はい」
 小さく頷いて、しかしわたしは動転しすぎていた。
「大丈夫……大丈夫です、ありがとう」
 わたしはそれだけ言うと、スカイハイに小さく会釈をして慌てて屋上からビル内に通じるドアへと走った。ドアを閉める前にちらっと見るとスカイハイがまだそこにいたので、わたしは少し声をはりあげてさよなら! とだけ言った。あとはどうなったか知らないし、何故こんなところにスカイハイがいたのかもわからなかったが、オフィスに戻ってもわたしの心臓はばくばくと音を立てていたので、夢でなかったことだけは信じられた。
 わたしが次に屋上に行ったのは翌日の早朝だった。実は、スカイハイが現れたときに驚きすぎて手提げの中にあった携帯電話を落としてしまったようだったのだ。帰宅してからひとしきり探したわたしは、屋上に行ったことを思い出してがっくりとうなだれた。昨夜は遅くに雨が降っていた。わたしの携帯電話は防水加工がされていないのだ。きっと壊れているだろうとは思ったが、場合によっては中のデータが取り出せるかもしれない。一縷の望みをかけて屋上に行ったわたしは、結局携帯電話を見つけられずにすごすごとオフィスに引き上げた。ああ、一体どこで落としてしまったのだろう。
 失意の中で仕事をこなしたわたしは、残業が終ってから、とっぷり暮れた夜空を眺めていた。携帯電話はとっくに壊れているか、そうでなければ捨てられているだろう。長年使いこんだぼろぼろの携帯電話を欲しがる人などいないだろうから。何度目かの溜め息をついたわたしに、上空から声をかけられたのはそのときだった。
「こんばんは」
 見上げるとそこにはまたスカイハイがいた。今度は驚かなかったが、かわりにわたしはいつかの彼がしたように首を傾げた。スカイハイ、シュテルンビルトの誇るヒーローが一体わたしに何の用だろう。
「失礼ですが」
 言って、スカイハイはごそごそと何かを取り出した。
「これはあなたの落とし物でしょうか」
 差し出されたものは、古ぼけたわたしの携帯電話だった。
「どうしてそれを……?」
 お礼を言うことも忘れてわたしがきくと、スカイハイは気分を害した様子も見せずに説明してくれた。
「昨日は失礼しました。あのときあなたが落としていったようだったので、拾ってしまいました。雨で濡れたら壊れてしまうのではないかと思って」
 スカイハイの口調は丁寧だったが、身振り手振りが妙に大きい。それがおかしくて、わたしは気付くと笑顔になっていた。
「わたし、ポセイドンラインの遺失物係なんです」
 わたしは勝手に話し出した。少しでいいからこの気持ちを伝えたくて。
「でも、落とし物を拾って貰ったのは初めてです。ありがとう」
 古くてぼろぼろの携帯電話。だけど、わたしには大切なものだ。わたしはそれを胸に抱きしめて、ようやくスカイハイにお礼を言えた。
「どういたしまして」
 スカイハイは、テレビジョンでやっていたように小さく敬礼をすると、ゆっくりと夜空に向かって飛び去っていった。

 あれからしばらく経つけれど、わたしは相変わらずポセイドンラインの遺失物係として働いている。
 あのときスカイハイに携帯電話を拾ってもらったことを思い出すと、どんな時でも少しだけ明るい気持ちになれた。怒鳴りつけられることも時々あるけれど、自分が落とし物をして悲しい気持ちになったり、拾って貰えて嬉しかったことを思い出すと、電話の向こうにいる顔も知らない誰かにたいして親身になることができた。
 誰かが落としてしまった大切な何かを探すことができる、これはそういう仕事だと気づくきっかけをくれたのはスカイハイだ。だから、わたしはこれからも毎日誰かの落とし物を探していく。ポセイドンラインの遺失物センタで。


(09.29.11)


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