袖振り合うも多生の 春


 外面だの保身だの、そういった卑怯さを思わせる単語にはさっぱり縁がない、ワイルドタイガーこと鏑木・T・虎徹は、普段から自分自身の体裁についても無頓着である。流石にファッションにはそこそこ気を遣うが、食事に行くのにわざわざ敷居の高い店を選んだり、買物の際に値札で中身を判断したりはしない。意識することなくただ物事の本質だけを見る、そこが虎徹の美点でもあり、また楓に時折膨れっ面をさせてしまう要因でもある。
 この日、虎徹は珍しく評判が良いと知られるカフェで一人、遅めのランチをとっていた。と言うのも、前回なんとか時間を捻出して愛娘を食事に連れ出した際、彼女がごくあっさりと「ねえ、今度はオシャレなお店に行ってみたいな」と宣ったからだ。オシャレな店、というものにかれこれ何年も縁がなかったものだから、虎徹は楓を送り届けてから頭を抱えた。まだ十歳にもなっていない小さな子供を連れて行けるような、かつ小洒落た店になど心当たりがあるはずもなく、オシャレな店、オシャレな店、とついつい口に出して唸りながらその夜は終った。それから数日間は忙しい日々が続き、虎徹はしばし煩悶から開放されていたが、しばらくしてから急にぽっかりとあいた休みに虎徹は改めて楓が喜びそうなオシャレな店についてまた考えていた。十年以上前に友恵をデートに誘う度、頭を絞って店を選んだことが懐かしい。そう回想して、ふと虎徹は以前訪れたカフェを思い出していた。緊張しすぎてカトラリを落としてしまった笑い話つきのあの店。当時から老舗として知られていた、あの小洒落た店はまだあるだろうか。あの時は、気の利いたマスターがさりげなく新しいカトラリと一輪の花を持ってやってきて、「実はわざとカトラリを落としたら花を持ってくるようにという合図だったんですよ」と友恵に耳打ちしてから虎徹に小さくウィンクをくれたのだった。そんなエピソードを思い出した途端に、虎徹の足は懐かしい場所へと向かっていた。
 訪れた先にあった店は当時から変わらずそこにあった。ウッドデッキのテラスに幾つかのパラソルを広げ、味のある木と分厚いガラスの扉は上部がステンドグラス風にきらめいている。静かな佇まいの小さな店舗は、昔と同様に変わらず繁盛しているようだ。オープンサンドが美味かったよな。思いながらちらりと覗きこんだカウンタに少し老け込んだマスターの姿を見つけ、虎徹はそのまま店内に歩を進めた。ここに楓を連れて来よう。お前の母さんと昔ここでデートしたんだって話してやろう。変わらぬメニューに浮き立つ気持ちで注文をし、カウンタで受けとって振り向く。店内の席はどうやらいっぱいだが、テラス席ならまだ空きがあるようだ。まだまだ肌寒いこの季節、外の風を浴びる席は敬遠されているのだろう。体力にだけは自信のある虎徹は躊躇うことなくテラス席へ出た。風は多少あるものの、陽射しが暖かいのでそれほど悪くもない。遠くそびえ立つビルの群れを眺めながら、虎徹は厚みのあるカップを取り、カフェラッテに口をつけた。仄かなヘーゼルナッツの香り。うん、相変わらず美味い。そういえばこの店はホットミルクにもフレーバーのサービスをしてくれるのだった。きっと楓も喜んでくれるはずだ。店先のポプラ越しに陽射しがきらきらと輝いた。

 キース・グッドマンにはお気に入りのカフェがあった。ポセイドンライン本社からは少し距離があるものの、小さな老舗のカフェはいつも落ち着いた雰囲気で居心地がよく、時間に余裕がある時にはキースはこのカフェを訪れることにしていた。本社からモノレールで一駅、それからさらに5分ほど歩いたところにそのカフェはある。次のシーズンにはデビューする予定とは言え、ヒーロー候補でまだまだ研修中のキースは、様々な部署で教わったり実験をしたりする関係上、まともにランチタイムをとれないことが多い。特にここしばらくはデビュー間近ともあって、本社にいる間は社員からの差し入れや栄養補助剤の世話になりっぱなしだった。運よくこの日は次に予定されていた研修まで時間があいたこともあり、せっかくだからゆっくりランチでもとってきたらいいと送り出されてきた。それでキースは今日もそのカフェを目指して歩いている。
 時折吹く風に、芽吹いたばかりのポプラの葉がさらさらとそよぐ。帰りには社員に教えてもらった美味しい焼き菓子の店に立ち寄って、みんなにお土産を配ってあげよう。道行く人々を眺めながらそんなことを思うだけでキースの気持ちは浮き立つ。だが、目指すカフェが見えてきたあたりで、今日に限ってはどうやら人の入りが普段より多いことに気が付いた。潔く諦めても良かったが、テラス席ならまだ空いている様子だったので、キースは取り敢えずカフェに入ることにした。カウンタで注文をした時点でもしかしてとは思ったが、トレイを受けとって見回した店内は既に満席になっていた。それどころか、キースの前に並んでいた客の分でテラス席もふさがってしまっており、空席を求めてテラスに出たキースは途方に暮れた。改めてテイクアウトにして貰って本社に戻るとせっかくのランチが冷めてしまうし、このあたりには食事をとれるような公園もない。立ったまま食事をする訳にもいかず、肩を落として踵を返そうとしたキースは、後ろから呼び掛けられて足を止めた。
「あー、そこの君!」
「……なんでしょうか?」
 振り向いた先には、ハンチングを被った男がいた。突然声を上げたことで、周りのテーブルからの視線を受けて、やや居心地悪そうにしている。
「席ないんだろ? ここに座るか?」
「いいんですか!」
 途端にキースはぱっと笑顔になった。ああこの人はなんて親切なんだろう! でかでかとそう書いてでもあるような、人の好意をまるきり疑わない笑顔に、男がやや眩しげな表情になる。
「いいって。どうせ俺一人だし」
「困っていたところだったので助かります。ありがとう、そしてありがとう!」
「礼を言われるほどでもなぁ」
 ちょっと照れたように頭をかく男に改めて感謝の言葉を述べ、更に礼儀正しく会釈してからキースは向かいの席に腰掛けた。ふと男のトレイを見ると二人とも全く同じメニューを注文していたようで、キースはそれに微笑を浮かべる。男も気付いたのか、サンドイッチを手にとると小さく会釈を返してくる。
「ここのオープンサンドは最高だな」
「そうですね! わたしもこれが好きでよくここに来ます」
 にこにこと笑うキースに釣られたように、男が少し身を乗り出してきた。にやりと、いたずらっぽい微笑み。ハンチングがちょうど影になってなんとなく悪そうに見える。黒いネクタイに並ぶ飾りがきらりと光った。
「で、飲み物はやっぱカフェラッテだよな!」
「ヘーゼルナッツフレーバーの!」
 たまたま相席を申し出てくれた相手とこんなに趣味が合うとは! キースは嬉しくなってうんうんと何度も頷いた。この店はカフェラッテに好みのフレーバーをつけてくれるのだが、その種類が多い中、全く同じものを選ぶのはよほど趣味が合うということなのだろう。
「俺は虎徹だ」
「わたしはキース。キース・グッドマンです。よろしく、虎徹さん。そしてよろしく!」
 軽くナフキンで拭ってから差し出された手を握り返すと、虎徹が小さく吹き出した。
「あんたほんっと真面目そうだなあ。……虎徹って呼べよ。タメでいい」
「はい、……ああ、ありがとう!」
「ほら、冷めないうちに食おうぜ」
「そうしよう!」
 うん、いいやつだな。いいひとだ。虎徹とキースはお互いに好感を持ちつつ、揃ってオープンサンドにかぶりついた。

 ランチを食べながら、そして食べ終えてからも、虎徹とキースは話を弾ませていた。話しているのは大半がキースで、飼っている犬の話や好きな食べ物の話などを聞いているだけで虎徹も楽しい気分にさせられた。時にはお互いの共通点を見つけ、それについて語るときはキースが主に聞き役に回るのだった。
 ヒーローというのは孤独な職業である。確かにスポンサーが支えてくれるし、HERO TVのクルーとも長い付き合いだ。応援してくれるファンも(少ないのは確かだが)居ない訳ではない。しかし、虎徹がワイルドタイガーであることが機密として隠されなければいけない以上、一般人と腹を割って話すことは難しかったし、そもそもいつ何時呼び出されるかわからない身では日常生活が皆無になってしまうのが殆どであった。そんな虎徹の事情を詮索せず、尚且つ理解してくれるような人間は限られている。
 しかし、目の前の青年は違った。キースと名乗った彼は、自分自身の職業について言及しない代わりに虎徹の仕事やプライベートについて詮索もしてくる気配がない。こんなに話していて気楽な相手はこれまで滅多に居なかったので、虎徹は短時間の間にこの好青年に対してすっかり気を許していた。
 そうしてふたりで過ごすランチタイムはあっという間に過ぎ去り、ふと時計を確認したキースは残念そうに眉を下げた。そろそろ本社に戻らなければいけない時刻である。
「せっかく楽しく話しているところで申し訳ないんだが、わたしはそろそろ戻らなければならないようだ」
「お、どうした。ランチタイムは終りか?」
「そうなんだ。今日はたまたま昼休みが遅くなってしまってね」
「あーそっか……会社勤めは大変だな」
 楽しい時間はそう長くは続かないものだ。虎徹は小さく苦笑し、しかしすぐに明るく笑んでキースの肩を叩いた。会社勤め、という言葉は正確ではないので、言われたキースはどこかもやもやした気分になったが、まあヒーロー業もスポンサーあってのものだから勤め人には違いないと自分を納得させて頷いた。人の好意はありがたく受け取るに限る。
「お前さんは真面目そうだから、あんまり根を詰め過ぎない程度に頑張れよ!」
「ありがとう」
 気さくなスキンシップに少し照れつつ、不意にキースは虎徹の名前しか知らないことに思い至った。
「あ! ……その、連絡先を交換させて貰えないだろうか」
 言われて初めて虎徹もそれに気付いたらしく、二人は慌ててそれぞれのポケットを探った。
「あーすまん……携帯電話置いてきた」
「……どうやらわたしもだ……」
 キースのものはジャケットに隠れて見えないが、二人とも腕にコールブレスをつけており、いざという時にはそれがあるからと安心していたのだった。しかし、コールブレスの情報は安易に明け渡していいものではない。困った顔を見合わせていると、キースが唐突にガタンと音を立てて立ち上がった。
「すぐに戻るよ!」
 言い置いて店内に駆け込んだキースは、宣言通りすぐに戻ってきた。笑顔と共に差し出されたのはこのカフェの名刺で、キースは二枚持ってきたうちの一枚を裏返すとさらさらと連絡先を書いて寄越した。心得た虎徹もペンを受け取り、もう一枚に自分の携帯電話の連絡先を書いて渡す。
「随分アナログだな」
「結局のところ、アナログが一番確実かと思ってね」
 二人は笑い合い、そして挨拶を交わして別れた。
 少し進んだところで振り返ってこちらに手を振るキースの金髪がきらきらと輝き、純粋に綺麗だなと感嘆しながら虎徹も手を振り返す。気持ちのいい青年の姿が完全に見えなくなってから、虎徹はカップに残っていた最後のカフェラッテを飲み干した。ふわりと甘い後味があの青年を思わせ、虎徹は知らず知らず微笑んでいた。


(07.28.11)


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