風のろ姿 1


 キース・グッドマンは僕のクラスメイトだった。
 ハイスクールは違ったけど、シニア・ハイではたまたま同じ学校の、しかも同じクラスを3つもとっていたものだから、僕は11年生になってからの一年間をそこそこ彼と近しく過ごしていた。
 僕たちの居たシニア・ハイは、このあたりでは一番GPA(要するに成績評価のことだ)の平均が高いことで有名だった。普通GPAは4.0が満点だっていうのに、AP(高校で大学の単位を履修するなんて馬鹿げてると思うけど)を修得しているやつらが多いせいで平均が随分と引き上げられていた。学年の成績表を見ると4.0ぴったりのGPAがあってもトップ10%に入れないという有様で、あまりにレベルが高いというので12年生にあがると同時にわざわざ別の学区へ引越しをしたクラスメイトがいるくらいだった。まあ、大学に入るのには学内順位も大切だから、方法としてはアリだと思うけど。そんな状態になっている理由は単純で、たまたまこのシニア・ハイの学区域にやたら高級住宅街ばかり含まれていたからだった。あの映画俳優、あー、名前はちょっと忘れちゃったんだけど、ほら、この間新作が劇場動員人数の記録を更新しただろ。あの主演俳優なんかが僕たちの学区域内に別荘を持っていたりなんかするわけだよ。金持ちの子供は金持ちだし、貧乏人の子供は貧乏だ。金持ちの子供は家庭教師を雇ったりなんかしてどんどん成績を伸ばしていくし、貧乏人は自分の子供に度を超えた期待をしないのが普通だ。そんなわけで、シニア・ハイにあがった途端に僕は否応なしにやたら金持ちの子供たちに囲まれる羽目になってしまった。今でこそ育ちのいい連中と学生生活を通じてわずかなりともコネを持てたことに感謝する時もあるが、当時は随分と肩身が狭い思いをしたものだった。なにしろ、それまで僕の居たハイスクールの学区はごくごく普通の地区で、その中でも僕はあまり裕福なほうではない家庭に育ったものだから、シニア・ハイに上がってどれだけ僕が小さくなっていたかは想像がつくだろう。50シュテルンドルのジーンズを履いて授業に出て、隣の席の女の子たちが「700シュテルンドル以下のジーンズなんて履いたこともないよね」と話しているのを聞いているだけで、うらやむ以前に、ああ住む世界が違うのだなと実感してしまう。そんな訳で、新学期の一番最初のピリオドが終るまでには、僕はとにかく目立たないように学校生活を過ごしていこうと決意していた。
 僕がそうして50分かけて固めた決意は、しかし、次のクラスであっさりと覆されてしまった。
 どのクラスも初回は自己紹介やら授業内容の話で終始するものだけど、政治のクラスもご多分に漏れず同じような展開になっていた。教師の自己紹介。セメスターの流れと評価基準の話。二週間に一回クイズ(小テスト)をやって、それの平均が二割、ファイナル(期末試験)が八割を占めて最終的な成績が決まる。特殊なことは何もない。
「それじゃあ皆さん一人一人自己紹介をお願い。みんなもう1つめのピリオドで自己紹介をしたと思うけど、わたしは皆さんと初対面だから我慢してね」
 政治担当の教師は身重の女性で、やや膨らんだお腹を撫でながら幸せそうな笑顔でクラスルームを見回した。最初に右端の席に座っていたのっぽが自己紹介を始める。教師が言った通り、先程のクラスでもやったばかりだし、今日は一日中これを繰り返すかと思うとそれだけで憂鬱だった。そもそもなんだってみんな自分の親の話をしたがるんだろう。議員だの重役だの、そんなのはここにいる本人には関係ないのに。……まあ関係あるだろうな。自分と同じ階級の人間とだけ付き合っていくつもりなら、正しい方法だ。僕には父親がいなくて母はホールフードの店で働いている。トレーラーに住んでいないのが奇跡的なくらいだが、軍の飛行機乗りだった父が3年前に殉職したのでその分の手当を政府から貰うことで今の生活が成り立っている。家族はその他に犬が一匹居るくらいで、ほかには親戚も居ない。こんな話は皆の前ですることじゃないし、そうする気もなかったから、僕は今回も名乗ってから当たり障りのない話だけをしてさっさと席についた。せめて何かユーモアのセンスでもあればマシだったのだろうけど、残念ながらそううまくはいかない。
 僕に続いて後ろの席、そして列がかわって左隣の列から次々と続いていく。皆の発言を聞き流しながらぼんやりしていた僕がふと顔をあげたタイミングで、ちょうど彼が立ち上がった。
 金髪碧眼、典型的なコーカソイドの彼は、キース・グッドマンと名乗った。
 夏の陽射しのような明るい笑顔、期待と希望にきらきらと輝くひとみ。彼は家族構成にかこつけた親の自慢も、趣味と言う名の英才教育披露もせず、シンプルに皆と同じクラスになれた喜びと授業に対する意気込みを語った(意気込み! 必修のクラスでわざわざそんなものを語るやつは初めて見た)。僕は無意識に彼をじっと見つめてしまってから、ふと我に返って内心慌てた。あまりにも凝視し過ぎたかと思ったのだ。しかし、さりげなく周囲に視線をやると、どうやら彼にどこか惹きつけられたのは僕だけではなかったようで、誰もが思いがけない熱心さで彼を見つめている。シンプルな無地の白いTシャツと、たいして値のはりそうにない洗いざらしのジーンズを身に着けているだけなのに、彼のまわりだけなにか空気が違うような気さえするのだった。
 話し終えて席についた彼は、次の自己紹介を聞くために軽く振り返った。僕には背中を向ける形で体を傾けた彼の、首筋をさらりとなぞる金髪の襟足が跳ね上がっている。いったい彼の何が特別なのだろうか。それに気を取られているうちに、あっという間に全員の自己紹介が終ってしまっていた。あれだけ苦痛に思えていた時間が瞬く間に過ぎ去ってしまったことにも僕は驚いていたが、さらに驚いたことに、彼は教師が皆にお互いを知るためと称して自由時間を設けた途端に僕を振り返って笑いかけてきた。あとで知ったことだが、彼も犬を飼っている(それもまだ子犬だそうだ)ために興味を持ってくれたということだった。
「これから一年間隣の席だね。よろしく、そしてよろしく!」
 早速彼と近付きになるべく声をかけようとしていた周囲のクラスメイトの視線を一身に受け、僕はどぎまぎしながらもなんとか頷きを返した。
「仲良くして貰えたら嬉しい!」
 彼はそう言ったが、僕なんかが彼と仲良く「してあげる」までもなく、彼と仲良くなりたがる人間がこれから幾らでも現れるだろうことは解っていた。
 だが、その時差し出された手を握り返した時の、一陣の風が吹き抜けたようなあの笑顔。それを僕は結局忘れることができなかったし、恐らく一生忘れられないままでいるだろう。
 キース・グッドマンとは、そういう男だった。


(07.22.11)


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